2011年01月25日

オーディション



優勝から一夜明けて、
アントニオは疲れを見せずに起きて学校へ行った。

金メダルを持って。

ちょうど今宵は、授業参観日。
親御さんが見ている前で一人ずつ<縄跳び>を披露する。
と共に親子タッグでの<かるた>も行われた,と。

ワイフが言う。

<縄跳び>は圧倒的にしてダントツで、アントニオが上手かった,と。
先生以下、誰もがそれを認めたようである。

というよりも、ひと目見てパッと分かるのだ。

昨年、縄跳びが上手く出来なかったアントニオは、
ダモシxアントニオの夏休みの特訓で
出来るようになっていた。

それに加えて道場や空手トレーニングで
普通に縄跳びをやるようになって、
いつの間にか上達していたようである。

空手や道場の世界では、お兄ちゃんが多いから、
アントニオが上手いということは相対比較で分からない。
皆、普通に"すごく上手い"からだ。

ところが、格闘技やスポーツを
コンペティティブ(競技として)でふだんから
行っているわけではない普通の同じ小学一年生の中で
それを行うと、際立つわけだ。

飛び方やスピード、縄を通す位置(超低空)でモノが違う。
それはひと目見てパッと誰の目にも明らかだった、というわけだ。

<モノが違うわね…>と。

そして、それは<かるた>でも表れた,と。

相手になった子供側にはお父さんもいて、
ワイフ&アントニオ組に対して2-3で闘っているのだが、
まさに早送りハイスパート空手そのままに
秒速の世界でぴゅっぴゅっぴゅっと獲っていき、

あまりの圧勝に、
相手の父親が思わず己が子供に
<ボケッとしていないで、ちゃんとしなさい!>
とエキサイトしてしまうほどであったという。

ダモシは胸を張った。

<わっはっは。あたぼうよ!鍛え方が違うよ鍛え方が、ああ?
 俺の繰り出すパンチやキックを
 瞬時にサバいたり、スウェイする練習を
 当たり前にやっているのだからな。
 反射神経と動態視力も、負けないよ?>。

これまでもアントニオの小学校における最初の担任教師の
センスの良さにはダモシも認めるものがあったのだが、
今宵、金メダルを持参して先生に事の顛末をも語った
アントニオに対して、この教師がとった対応にも舌を巻いた。

何とクラス全員に事の顛末を語り、
一人一分ずつ金メダルを回して手に触れて眺める
という時間をエクストラ・イニングでとったというのである。

ワイフからそれを聞いたダモシは、
<ほぅ。素晴しいことだな>と教師を褒めた。

そして縄跳びに関しても、
<そりゃあ、モノが違うわさ。オレが教えているんだ。
 そもそも俺を殴ったり蹴ってるんだぜ?
 サンドバックにやるより、やる方は鍛えられるよ。
 山路?ナンボのもんよ>

と、ワケの分からないプライドを覗かせたダモシ。


そもそも論だが、
今、子供の体力不足が語られている時代である。

聞けば、小学生(高学年)で、腕立て伏せをやらせたら
二十回も十回も出来ないというから情けない。

道場の五年生の選手が二人いるが、
同じ小学校に通う彼らだけが
クラスや学年の中で卓越して腕立て伏せが出来たという。

まあ、当たり前だろう。鍛え方が違う。

アントニオが身体的活動におけるその動態で
クラスメート誰一人にも負けないほど
ふだん鍛えているし、闘いの修羅場をくぐっている。

これは間違いない。

何も運動が出来ることだけが良い
ということを言っているのではない。

ダモシも大会においても、闘いのみならず、
武道精神につながる静の<型>でもアントニオが
既にトップレベルにあることも知っている。

要するに文武両道たれ、ということである。

だがしかし、
<力の中に、技がある>という究極の言葉が示す通り、

武の中に、文があるのだ。
文の中に武があるのではないのだ。

そこが重要な部分となる。

まずは根本的なところで<身体>こそ、ありき。

今宵のニュースでも出ているが、
<現代の子供は疲労している>と。

昔と違い、疲労につながる要素が多いのは当然。

小学生の子供を持つ600人の母親への調査で、
<己が子供は疲れている>と答えた親は44%。

ゲーム、塾通い、パソコン…。
塾通いはともかく、ゲームやパソコン、携帯という
疲労アイテムがぎょうさん増えた現代である。

ここにも根本的な何かが、忘れられている。

基本は、子供時代及び青少年時代は、
<身体活動>は欠かすことができないということである。

部活動にしても学校外でのコンペティティブな競技にしても、
<スポーツ>で心と身体を鍛える
という基本的な所作が今や欠けているのではないか、と。

腕立て伏せもまともに出来ないような子供では、
いくら英語が出来ても
世界で御すことはまず難しい。

基本は,心と身体を鍛えることから始めることが先決である

と、ダモシは常々、感じているし、実践しているところである。


まあ、いい。

皆が皆そうなってしまっては、これまた不愉快だ。



*****



アントニオがテレビや雑誌に出たいと言い出してから
密かに動いていたのだが、
モデルやタレントの審査が通り、

いよいよ再来週、最終オーディションと相成った。

良いのか悪いのか受かった二つのオーディションが
同日になってしまったため、
一つはキャンセルせざるを得ないが、

まあ空手でもデビュー戦は破れたから、
ものは試しで、どういったものかも含めて
その最終オーディションへ臨もうぜ、ということであるが、

当然、ダモシ&ワイフも行くわけだ。

そしてその場で、
<あれ?お父さん、格好いいですね>ということになり、
ダモシにオファーがあれば…
ということも当然視野に入れているダモシである。

当日はフォト・セッションもあるらしい。

アントニオの当日の顔が調子の良いことを願おう。

それこそ前述の話題ではないが、
アントニオとて普通に昨日のように
組手も型も出て、出るだけではなく
いずれもフルに決勝戦まで闘っている場合、疲れるわけだ。

疲れの度合いによって顔は、特に目は、違ってくる。

まあ、場慣れという部分では、
アントニオ曰く、どんなことでも
<組手の闘いほどではないよ>ということで、
大舞台も経験しているからして、何ら問題はなかろう。

何せ国立代々木競技場や横浜文体など既に幼児の段階から
経験しているわけだから、
それこそ学校やスタジオなんぞ、どうこうなかろう。

ダモシ&ワイフの方が緊張するもの、で。

世の親の70%が
<自分の子供時代より
 今の子供の方が疲労する材料が多い>と感じているが、

ダモシ&ワイフからすれば
<自分の子供時代より
 アントニオの方が緊張する舞台を多く踏んでいるのに
 まったく物怖じしないのは、どういうことだ?>

という現代である。

幼稚園の学芸会で司会を強制されて
緊張しまくっていたダモシや
学校に行きたくないと泣きべそをかいていたワイフの
子としては、

ほとほと、常々、

<誰に似たんだ?>という世界である。


次はオーディション。

これもまた
ダモシ&ワイフが経験したことのない世界へ
アントニオは踏み込んでゆく。



posted by damoshi at 00:16| R-246 ダイアリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月24日

彼が見た、夢



<今のアントニオは強いよ?>。

戦前、近しい人には、密かにダモシはそう言っていた。

昨秋の11.28、そして大阪ナイトメア。
これを受けたダモシが、
アントニオのマイナーチェンジに取り組んでいた。

マイナーチェンジといえば微細な改良であったり、
微かな小幅の改良となるが、

かつて小川直也が柔道からプロレスに転じた際、
最初の橋本真也戦で柔道着を纏っていた小川と、
シュートを仕掛けた頃の小川では、
闘いのスタイルが変わっていたが、

時間的にそこまではいかずとも、
それに近い<CHANGE>を密かに遂行していた。

そのための、時間。

それが大阪ナイトメアからこの一月下旬まで、
闘いの合間をとっていたことの
一つの理由である。

昨年末。ダモシ家で行われたダモシxワイフの会議で、
2011年度のアントニオの方向性が話し合われた。

フルコンタクトの空手の正統路線を引き続き進むことと、
K-1系(キックやムエタイ)へは行かず
ボクシング路線へ幅を広げるという結論である。

ダモシの考え方の中には、
<空手→キックボクシング>にはならない。
<空手+ボクシング→キックボクシング>になる。

要するにキックボクシングではなく、
空手の中にボクシングが加わることの選択であり、
ボクシングは正統ボクシングであってこそ、
それを空手に+することで、
キックボクシングをやっても他とは異なるレベルと
パフォーマンスを遂行することができるという考え方である。

コンサーバティヴなダモシを象徴しても、いる。

フルコンの空手がダメだからキックへ進むのではなく、
フルコンの空手も強く、
それに正統ボクシングも身につけた上で
そのハイブリッドとして初めてキックに生きる、と。

A:11.28での、圧勝しているにも関わらずの反則ポイント負け
B:大阪ナイトメアでの、自身初のKO負け。

この二つはダモシに強烈なる反抗心をもたらせた。

敗北の教訓である。

Aに関する教訓は、
<一発で決める>ウィニングショットの精度が低いから
それを徹底的に上げることと共に、
それを繰り出し/的中させるためにどうするかを
徹底的に仕込む必要性。

Bに関するそれは、
これまで以上に打たれ強くなることと、
打たれないこと(=ディフェンスをさらに強固にする)、
さらにはそれと同時にオフェンスで徹底的に相手を弱らせること。
そしてBはつまり、Aの教訓とも連鎖する。

これまでのアントニオならではの、
ほとんどの選手がついてくることができない
全盛期の長州力の"ハイスパート・レスリング"に等しい
"ハイスパート空手"を、

さらにプラスαして、
もはや<早送り/コマ送りか?>とさえ思える
スピードを付加する。

早送り空手、である。

そして、それに原初的なゴッドハンドの空手イズムを
もう一度、ダモシは呼び起こした。

基本中の基本。

<力の中に、技がある>。

ダモシによれば、
その具体的な内容は伏せて欲しいということだが、
大枠でまとめると上述したようなタスクを持って
大阪ナイトメア以降のマイナーチェンジに取り組んでいた。

そして冒頭の、
<今のアントニオは強いよ?>という静かな自信に至る。

闘い前夜、アントニオもダモシも静かな心持ちだった。

当日の朝もまた同様で、
緊張感の中にも、急く心持ちがなく、
静かに穏やかに会場へ向かうべく、早朝、自宅を出発した。

<今日は妙に寒いですね>。

港北エリアで館長と落ち合い、
ダモフィーロで一路、
東名高速、首都高を経て大会会場入り。

道場での稽古以外で、
ダモシが施しているマイナーチェンジは
この時点では館長に語らずにハンドルを握るダモシだった。


*****


アントニオにとっては相性の良い極真系の
オープン・トーナメント。

主催者側の想定を大幅に超える参加団体・選手で溢れる会場。

まずは型(演武)からのスタートとなった。

型はワイフが戦略担当となっているダモシ軍。

一回戦から決勝戦まで行くという前提で、
相手関係を見て、どこでどの演武を持ってくるか。
どこが勝負どころになるかを見極める。

序盤は、この演武で普通に勝つだろう。
勝負どころは同門対決になる準決勝と決勝。
ここで切り札を出す、と。

そういう算段である。

ダモシはアリーナに降りずに二階からカメラを構えながら
じっくりと見る。

(<普通にやれば、互いにまずは準決勝まで進むだろう。
  そこで二年生の〇〇君と当たるだろう>)。

副審二人、主審一人。合計三人の旗がどちらに上がるか。
判定競技である。

すべて3-0の圧勝で勝ち進むアントニオ。
モメンタムは自身で高めている。

ダモシはこの時点で感じている。

(<何も言うことないな。
  放っておいてもこのまま自分でモメンタム上げている。
  これまでで最高の状態であり、
  最高の演武を見せている。いけるぞ、これは>。


012311C.JPG

型もまた如実に出る。
組手以上に、差が出る。

ヘナチョコか、そうでないかは一目瞭然となる。

012311D.JPG

礼儀として、勝ち負けできるレベルはもとより、
最低限、ヘナチョコではないレベルで臨むことがマストである。



準決勝。

相手も注文通り、同じ道場の二年生が勝ち進んできた。
他の団体、主催者団体を差し置いて
アントニオが属する道場の選手同士の準決勝となった。

別のブロックからも同じ道場の二年生が
順調に勝ち進んでいる。彼は本命=フェイヴァリットだ。

まずは準決勝でこの上級生を破ることが求められたアントニオ。
変わらぬモメンタム。
切り札でもある演武を披露する。
相手も同じ演武だ。
共にレベルの高い演武である。

アントニオのそれは、小学校で昨年末、披露したものだ。
絶対的な自信を持っている芸術性の高いものである。

3-0、完勝。

決勝へコマを進めた。

間断なく、決勝戦。

決勝戦でも、その切り札演武を持ってきた。
準決勝、決勝はワイフの戦略では
それを連続してもってくることになっていた。

途中、一度だけ楽勝だろうと思える対戦でも
あえてそれを披露していた。
それを審判団の目に触れさせることで
<あ、上手いなこれは…>と焼きつける戦略である。

決勝戦の相手となった同門の二年生の親は、
途中の闘いを観ていて

(<アントニオと当たったら負けるな…>)

と感じていた。

だから
<演武の順番を変えた>。

彼の陣営も、同じ演目を決勝戦で持ってきた。

準決勝、決勝と続けてアントニオは、
同門の上級生と、同じ演目で相見えることになった。

(<面白い。素晴しいなぁ…>)とダモシは感じていた。

軽視していることはまったくないが、
ダモシは闘い(組手)担当である。

<型はワイフの領域だ。任せてるから>。

どこでどの演武を出すかも任せているわけだ。
一度任せたら口は出さないダモシである。


*****


型。<小学一年&二年>の部、決勝戦。

まさにこれは今後、名勝負数え唄になり得る
好勝負となった。

会場中が釘付けになる。

アリーナでビデオを撮るために
リングサイドにいたワイフの背中で
他の団体の親たちが口々に言い合っている。

<最初からあの子、すごく上手いでしょ>
<あの子の勝ちね…>
<小さいのに、キビキビしていて…>

ワイフは誇らしい気持ちになり、
ムーヴィーを構えながら心の中で呟いた。

(<ええ、私の息子ですよ>)。

上級生も、もちろん秀でている。
誰が見ても上手い。

二人のそれは
闘いでの型とはいえぬほど、
息が異様なほどピタリと揃い、
一つ一つの所作と動態がほぼ同じで進んでいく。
まさに型の演武の模範演技の世界観が
会場を支配する。


012311E.JPG

(左がアントニオ)

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012311G.JPG

最上級の闘いである。
<型>でもニッポン代表を選んでは、どうか。

まったく甲乙つけがたい流れであると同時に、
二人ともがレベルが高い型を見せながらも
アクションが完璧といってよいほど揃っている。

(<う〜ん、名勝負だ!>)

ダモシは心の中で唸った。
相手のレベルが高いと嬉しくなるのだ。
まさにスイングしている闘い。

いずれもパーフェクトともいえる内容で、
フィニッシュもほぼ同時。

準決勝の上級生は、やはり同じ演目だったにも関わらず、
アントニオよりもかなり早く終わり、
アントニオが一人、じっくりとそれを見せた。

アントニオのペースは一貫して変わらないが、
決勝戦では相手とフィニッシュがピタリと合った。

ここが、一つには
微細な部分を除いたところでいうところの、差になる。

準決勝はその様相もあり、3-0。

しかし決勝は、相手もフェイヴァリットであり、
微細な部分も完璧にこなしていた。

(<前半はあっちが上。しかし後半はアントニオだな>)

ダモシは感じていた。

ワイフは
(<アントニオの勝ち>)と感じている。

他の者はまた三者三様的見方がある。

副審一人が相手の旗を挙げる。

だがもう一人がアントニオを挙げた。

<ん?>。ダモシが<勝つか?>と一瞬思う。

次の瞬間、主審がコールするが、
主審がほんの一瞬迷った。

手がピクッと動いてから、
逆側を挙げて相手側の勝利を告げた。

1-2。甲乙付け難い中であったが、
アントニオは大金星を逃して準優勝。

アントニオは、
<型は勝ったと思った>と語るほど、
自信が持てるパフォーマンスを本人は、した。

ダモシ、ワイフが見ていても過去に見た型の中で、
総合的にすべてが最高のものだった。

準決勝でアントニオに破れた上級生は
三位決定戦でも他団体に破れて銅メダルを逃したが、
<型>で同じ道場の上級生とアントニオで
金銀を独占した形となった。


012311H.JPG

悔しさを滲ませる<型>の表彰式でのアントニオ。



参加者が多く、朝から始まった大会は、
<型>だけで既に13時を回っていた。

ダモシはその間、アントニオの身体を冷やさぬよう、
そしてマインドをリラックスさせることに尽力した。

<外へ出て遊ぼう>。

試合前に<遊ぼう>という言葉が出て、
アントニオと遊ぶ自体、
これまでの大会では決してあり得ないことであった。

それだけ
<今のアントニオは強いよ?>という部分への自信と、
己が採ってきた戦略、
共にやってきた秘密特訓への信頼があったのだ。

<勝ち負けになる>と。

そして闘い:組手の試合が始まる十分前。

計ったようにアリーナに出て、
必ず見ている人たちがいる中で
見せるようにダモシxアントニオの"約束組手"で
身体を温める。

ダモシもアントニオも<気合>ではなく、
<静かなる自信>と<闘志>
=目的遂行する意思
をこの時点で持っている。

ただ<勝つぞ>ではないところの領域のマインドに至っている。

小学一年の闘い:組手が始まる。
整列する選手たちを見渡せばひと目で分かる。

いつものことだ。

<アントニオが最低身長/最軽量である>ことが。

(<また、だ。まあ、これでいい>)
ダモシは感じる。

アントニオも、もはや言う。

<ていうか、自分より小さいの、いないもん>

マイナーチェンジはさらにフェーズを上げてきた。
この点も、である。

<小さいことを武器とする>ことと
<相手がイヤがることをする>という
以前からのイデオロギーにさらに"力"を付加してきた。

"力の中に、技がある"というゴッドハンドの
根本的なイデオロギーである。

すべての勝負は、アントニオのパンチで決した。
スタンディング・ダウンをとらなければ危険
とさえ思えるほどの、これまでのアントニオの闘いとは別人の
恐怖のパンチが連打された。

そして、すべての試合で一本を決めたアントニオ。

ウィニング・ショットの精度が完全に上がっている。

パンチで流血に追い込んで、アントニオの道着に返り血がついた。

一発KOに時間を要した試合も
最後はハイキック。

ダモシは叫ぶ。

<時間かかりすぎだ。もっと早くそれだ>。


しかし、アントニオの息が、
いつも以上に乱れていることが分かる。

(<調子悪いか?>)と訝しがるが、
なんと試合時間が二分だったことに気づいた。

観客もざわめく。
通常は一分半である。

同団体の関係者が主催者に問う。

<一分半では?>

<いえ、この大会は二分です。延長が一分>

なんということか。
他流へ乗り込んできている側としては
聞いていない話であった。

しかしそれを覆すことはできない。

ダモシはアントニオを呼んだ。

<試合は二分だったようだ。すまん。
 ふだんより長く感じてるだろ?息も苦しいだろ。
 いいか、全部の試合で二分フルに闘っていたら、
 決勝まで持たんから、一発で決めていけ。
 精度を上げて、時間かけずに勝ち上がれ!>。

頷くアントニオ。

その通りに進む。

次第に会場はアントニオの世界になってくる。

秘密特訓でやってきた多様な技、細かい技の、
それぞれほとんどを実際に繰り出しているアントニオ。

<あの小さい子、なに?>
<なにあのスピード…>

身長が10cmレベルで高いのに、
アントニオを前にして、ただただ逃げ回るだけの選手もいた。
しかし逃げ回りながらも前蹴りやハイキックを出してくる。
これも危険なパターン。

<足で追いかけるな。練習した通りでいいんだぞ!>

練習通りの方法でインして、パンチ連打。
もう相手は下がるしかない。
この繰り返しの中で、動きの止まった相手を大技で仕留める。

上がっていた息が、持ちかえした。


準決勝。

これまでと同様に、インファイトでパンチで圧倒する。
いずれの選手もアゴが上がりワキが甘い。
ただ大技でハイキックを狙う。
小さい者にインファイトをさせないために
お決まりの前蹴りを連発する。

今のアントニオは、それをすべて見切る。

ダモシxアントニオの<風車の理論>も、
ある段階で、彼は"理解"した。
あとはそれを精度を上げて身体に染み込ませる。
実戦で繰り返す。

それらすべてをマイナーチェンジして実戦で見せる初めての舞台。

終盤、右のハイキックが決まる。ベシッ!
一本にならずとも、技有り。
時間はない。
このままガードを固めれば勝ちだ。

が、モメンタムが乗り、自信にもあふれているアントニオは、
休まずにハイスパート空手で
オフェンスする。

バシッ。

不用意に飛び込んだところに相手側意地の右ハイキック。
いささか浅かったが、主審は技有りをとる。

1-1。

そのまま時間切れ。

延長になる。

(<不用意だな…。負けるとすればココだな。
  ココが勝負どころだ>)とダモシは踏んだ。

アントニオが、セコンドのダモシを振り向く。

延長になったとき、のっけから仕掛けるのはコレだ
とダモシは秘密特訓で繰り返し練習をしていた。

ダモシは声を出さずに、口を動かして
アントニオに指示を出した。

出す寸前、迷いが生じるダモシ。

(<ゼロか、扇風機か、フグか…>)

一瞬の迷いが命取りになる。

旧来の十八番に頼ったダモシは、
口の動きで

<ゼロ!ゼロ!>と伝える。

アントニオは頷く。

主審の<始め!>の声がかかり戦闘開始。

勢い良く飛び込むアントニオ。
ジャンピング・ゼロのフォームになっている。

が、やってくるだろうなとダモシが感じたから、
諸刃の剣になる危険性から迷った<前蹴り>を
相手がベストのタイミングで繰り出した。

(<あっ…。マズいっ!>)。



*****



しかしここでアントニオには、
ジャンピング・ゼロのフォームで
駆けていってジャンプし、空中にいる途中で、相手の前蹴りが見えた。

<見えた>と語るアントニオは、
即座に反応して、
これも秘密特訓で練習していた
空中で体と技を切り替える<三日月殺法>へ切り替えた。

<おおっ!三日月だっ!自然にやってるっ!>

ダモシが思わず叫んだ。

ドスッ!

相手の肋骨にヒット。

そのダメージを受けたままの相手に、
インファイトで徹底的なパンチ連打。

そして、トドメはハイキック一閃。

しかも離れ際の、やや体勢を後ろにずらしながら、
さらにジャンプしながらのハイキック。

<へいっ!入ったぁっ!>

<きゃー!>

歓声が上がる。

そのまま時間切れ。
判定は文句なしでアントニオに旗が挙がり、
決勝へとコマを進めた。



*****


決勝戦。

相手はこれまでのタイプと同様だ。

ヘビー級ではないが
身長差を利して長い足でハイキックや横蹴り、前蹴りでの
アウトファイトに徹し、技有りを稼ぐタイプである。

だがマイナーチェンジしたアントニオは、
一発KO型選手への変貌を遂げている最中である。

すべての前蹴り、横蹴り、ハイキックをカットする。

時に危険な間合いになるときには
すぐにダモシの声が飛ぶ。

<距離をとるな!インに切り込んでボディ!>

パンチが徹底的に効いている。
左右のパンチ連打で相手の動きは止まってくる。

アウトファイトにしたい相手が
無理に身体を放そうともがくと、
完全に負けん気アントニオに入っているアントニオは、

ダモシの密かな教えの一つでもある
〜時には掴んでヒザ入れたりもいいぞ〜を実践し、

道着を掴んで相手を逃がさない状態で、
右の強烈なフック連打を速射砲で六連発。

たまらず主審がブレイクを命じて、
アントニオに<警告!>を与える。

さらには胸をぶつけて徹底的に密着してボディ連打。

アントニオの"強気"をより活かす作戦。
本人がよりcomfortableであることこそ、大事である。

ダモシは叫ぶ。

<もうボディ効いてるから!
 ボディだけでいい!ボディボディボディ!>

逃がさないと決意したアントニオは、
フック、ボディブローを連打する。
空手でいう下突きだが、
やや様相は異なりボクシング型パンチである。

アゴが上がり、ワキが甘くなる相手をさらに逃がさずに
徹底的なボディ攻撃。

さらに
<ボディの流れで密着状態でヒザ!>と
ダモシが叫べば、即座にヒザをヒットさせる。
相手の身体が浮く。

その間、また途中で道着を掴んでのパンチ連打で、
主審からさらに強い口調での<警告!>が与えられた。

そのブレイク時、ダモシはアントニオに
自分の方を向くように叫んだ。
ダモシを見るアントニオ。

ここでダモシは指示を出す。

<さあ、そろそろ"回ってロー"いこうか!>

アントニオの十八番、"回ってロー"をここで出す。

もう相手はついてくることが出来ない。

ダモシの声の後、すぐにそれを遂行するアントニオを見て、
周囲の観客から<おぉー!>という声が挙がる。

<そう!それ!そしてどうだったっけ?円の動きだ!
 サークルを描け!>というダモシの追加声がけに
円の動きを実践するアントニオ。

<おぉぉ…>とまた声が挙がる。

同時にワイフに、応援団が声がけする。

<すごい。セコンドの指示を確実にやっている!。
 ちゃんと話を聞くなんてすごい!>。

ここまでセコンドの話、
つまり、例の<オレの話を、聞かんかい!>と
ダモシがブチ切れたかつてとまるで様相が違う。

<今のアントニオは強いよ?>という部分の一つが、
このセコンドの声が耳に入るようになったことでもある。

そして常々ダモシが説いている
<主導権を握れ!自分のペースでやれ!己が快適であれ!>
も理解するようになってきた。

ローで相手はグラつく。もはや一方的。

もう忌憚なく、"ボコボコ"といっても良い世界になった。

が、しかし。

判定では、
アントニオに一人が挙げたが、
もう一人が相手に挙げた。
主審が相手をとればアウトだ。

主審は、引き分けを宣告。

またもや延長戦。

ここまでくると
<勝ち負けする>レベルを超えて、
どちらが勝つことへのこだわりを持って
本人が闘うか、になってくる。

ダモシの口からアントニオの耳に、
久しぶりにあの台詞が出た。


<最後の一分だ。
 優勝して、仮面ライダーのベルトを買って帰ろうぜ。
 アントニオ、死にものぐるいでやれ!>。

頷くアントニオ。

延長戦でも、ほぼ一方的に攻める。

だが、一発食らう危険性は常にある。

そしてもはやアントニオは、疲労し切っている。

型においても決勝戦までフルに闘っているのだ。

しかし、死にものぐるいで攻めた。

一発はもう決められる体力は消失していたが、
最後の最後まで攻める。

残り十秒。

<がんばれ!最後だ!大きいの狙え!最後まで狙え!>

ダモシの叫びと共にゴングがなった。

共に技有り、なし。
だが、手数でも有効打でも圧倒的に上回っている。

延長ではなかったが、通常ラウンドでは警告があった。
あとは審判がどう、とるか。

アントニオが赤、相手が白。

副審一人が、白を挙げる。

もう一人が、赤を挙げる。

沸き上がる歓声。
両陣営の応援団は固唾を飲んで主審の断を待つ。


<赤、イチ! 白、イチ!>と叫んだ後、
主審は己が胸に手を持ってくる。
どちらを言うか。


<赤をとります!二対一で、赤の勝ちっ!>


キャー!

ワイフが叫び、小さくジャンプする。
ダモシはガッツポーズ。
応援団から大歓声が上がる。

アントニオが毎週ある曜日に、
年長者として面倒を見ている幼児や新弟子たちと
その親たちが喜んでいる。

新しい練習生の中で
アントニオと同じ小学一年生の女子は
この日がデビュー戦だったが、

<アントニオ君みたいに強くなりたい>と言った。

<カッコ良いわぁ。ほんと、いいものを見せてもらいました>
と親が言った。

周囲がいる中でハシャぐことはないダモシは、
戻ってきたアントニオに対して
<相手側に挨拶にいくぞ>と共に相手側の健闘を称えにいった。

そして戻ってきた。
アントニオはワイフに抱きつき、二人は泣いた。

ダモシはこの場では<当然だ!>と言わんばかりの顔で
涙を堪え、すぐに体育館を出て外に行った。

誰もいないところで快哉をあげ、ガッツポーズをした。
そしてウルトラの母へ携帯メールを送った。

ダモシが<やったよー!>とハシャげるのは、
やはりウルトラの母だけだろう。

アントニオが<マミー、やったよ!>と言うのと、
ダモシがウルトラの母に<お母さん、やったよ!>は、
ある意味で、同じなのである。


アントニオ、涙の優勝で幕を閉じた。


*****


帰路の車中、館長が言った。

<パンチが(今までと全然違っていた)。
 パンチの回転が違ってた>。

ダモシは明かした。

<すべては敗北があってこそ。
 あの秋冬の悔しい敗北。
 リアルに悔しくて、
 何が何でもという感じでした。
 何が何でもリベンジするぞ,と。
 だから〜〜〜〜〜を強化したのです>。

〜〜〜〜〜の部分は企業秘密だから、
書かないでくれということであるが、
中身は、"単なるボクシング云々"ではない。


ダモシとしては、
己が戦略が間違っていなかったことを証明。

<これで結果を出せなかったら、
 オレの戦略が間違いということになる。
 でもオレは自信がある。信頼している。己を>。

そしてアントニオも
ダモシのそれによくついてきた。よく理解した。

良い点はどこか。
その良い点をさらに伸ばすにはどうするか。

欠けている点はどこか。
ではその欠けている部分を
どのようにして身につけていくか。

タスクが羅列され、
そのタスクを一つ一つ塗りつぶすには
どのような方法で、どのようなペースで
やっていけば良いのか。

その他、そういったことをすべて微細に戦略を練り、
その通りに遂行した。

それを遂行することを怠らないことと、
遂行できた暁にはこうなるだろうという
予想図と青写真を提示することで
コドモは理解する。

まず一つ言えることは、
道場での稽古や館長の指導はもとより、
その戦略を採らずに
その秘密稽古をしなかったら、
勝ち負けにならない可能性も高かったということである。

それだけ相手のレベルは高かった。
それはいつものことで
楽に勝てる大会は、一つもない。

常に先んじて、変化と進化をしていかなければならないのである。



*****



ダモシは明かした。

今回の、
ゴッドハンド墓参、
そしてカテドラル聖マリア大聖堂での祈り。

松尾芭蕉の関口芭蕉庵での願いは明かしていたが、
前記二ヶ所での祈りの内容は
明かしていなかった。

今回ダモシは、
勝ち負けになるレベルに仕上げたという自信と共に
実は<優勝する>という強い意思を持っていた。
 
だからゴッドハンドにも大聖堂でも、それを祈った。

<優勝します。優勝を目指している。
 優勝したい。優勝させたいのです!>

と。

教会で祈ったことは何度もあるが、
跪いて祈りを捧げたのは今回が初めてだった。

そこまで想っていたのである。今回。

そして、すべてのやることをやったという自信が、
前夜の心の平安だったのであろう。



*****



試合後、素の、小学一年生に戻ったアントニオ。
控えで同じ道場の幼児やお兄ちゃんと遊ぶ。
それを見た他の親が言う。

<試合を見ていると分からないけど、
 こうしてみると実はまだ一年生でコドモで、
 すごくカワイイの…>。

それは他の子供も同じだ。

要するに、
闘いのリングで身体の大小や年齢問わず、

いかに大きく見せるか、である。
大きく強く見えるように、ということである。

常にそうだが、
アントニオの場合、
試合前のポスチャーから想像がつかない世界で
実際の闘いの中では
どんなに大きい相手を前にしても
小さく見えないのである。

ここがどんなジャンルにおいても、
男として重要な部分の一つでもある。


ほとんどすべての同学年の選手たちは
アントニオより大きいのであるが、
逆に彼らに
<なぜ、こういう闘い方をせんかなぁ>と感じるダモシ。
もったいない、と。

アントニオが大きければ、
それこそ、
そうなった時に空手や格闘技を続けていればの話であるが、
ダモシは、ヘビー級の活かし方をいくらでも教えるだろう。

要するに、
それぞれの特性に見合った手法があるということである。



*****


アントニオが
小学一年&二年の<型>で準優勝。
小学一年の<組手>で優勝。

同団体から乗り込んだお兄ちゃん&お姉ちゃんも快勝。

A君(二年)=組手/三位 型/優勝
B君(二年)=組手/優勝
C君(五年)=組手/優勝 型/準優勝
D君(五年)=      型/優勝
Eちゃん(二年女子)=組手/優勝 型/優勝
Fちゃん(一年女子)=      型/三位

アントニオと同じく、
組手でも型でも準優勝以上は、
C君とEちゃんで合計三人。

この二人は今年になって、
旧所属団体の特殊部隊から遅れて移籍してきた。

アントニオとこの二人の三人こそ、
ニッポン代表なのである。

三人とも昨年の11.28では一回戦で不遇の敗北を喫した。
いずれも3.6でのリベンジを期している。
ニッポン代表ではない他の選手も同様だ。

ある意味で、今宵、他団体に乗り込んで総ナメした同団体。

館長からすればもう既に
アントニオに対して<勝って当たり前>くらいになっているが、
ダモシ軍は必死である。薄氷である。常に。

車中、ダモシは言った。

<ウチだけ負けたらイヤじゃないですか。
 必死ですよ、もう>。

本音である。

強い軍団の中で、負けずに。
強い軍団の中で常にその上級生と闘っていれば、
同学年でそうそう負けないでしょうよ、
というプライドもある。

さらにいえば、ニッポン代表のプライドもある。

すべての相手へリスペクトを持ち、
畏怖を感じ、勝ち負けすべてフィフティ・フィフティという中で
常に紙一重ではあり、
今宵もいずれの試合もどちらに転んでもおかしくはない世界にあって、

それでも"逆<紙一重>の厚み"を感じさせるプライドは、
簡単には勝たせないよ、というイズムを持つ
レベルに身を置くことも必要である、と。

紙一重の分厚さに苦しみつつも、
己もまた簡単に相手に勝たせない厚みを感じさせる。

そういう者同士が切磋琢磨することでノーサイドの
清々しさをも得る、と。


これこそが、<勝ち負けできるレベル>での深み、なのである。



*****



勝って兜の尾を締めよ。


ダモシ軍は帰宅後、遅かったが、ビデオを観た。
今日のアントニオの全試合のそれだ。

ダモシはそこで言った。

<勝って兜の尾を締めよ。
 3.6が今の最大標準だ。そこに向けてこれからは行くぞ。
 今日の優勝の中にも一杯、タスクがある。
 それも一つ一つ、必ず分かるように教えてやる。
 そして闘い方のフェーズもアップする。
 さらに強くしてやるぞ>。

アントニオは笑顔で頷いたが、
<遊ぶから>と突っぱね、
録画しておいた仮面ライダーを観ながら、
帰路、祝勝会の前に立ち寄ったヤマダ電機で買った
新しい仮面ライダーのベルトと人形と
『かいけつゾロリ』を手に楽しそうにしていた。


こうしてダモシ軍の、一月の、或る日曜日は終わった。



アントニオ、堂々の優勝。そして準優勝。

012311I.JPG


明日、小学校へメダルを二つ持っていき、
先生に、そして
3.6で応援に来る"彼女"へ見せると喜んで
アントニオは眠りについた。

寝静まった後でダモシは自室に入り、

撮ったアントニオの表彰式写真を見て、

嗚咽した。


012311p.jpg


何度も何度も写真の中のアントニオを見て、

<悔しい想いをしたものな。
 努力が実って良かったな…>と一人、呟いた。


これにて、
いよいよフェーズは
<3.6:リメンバー11.28>と、

その後の、
昨年のチャンピオンとして
ディフェンディング・チャンピオンで臨む
<3.27:連覇への挑戦>

へと向かってゆく。


常に挑戦者たれ、である。
既に今、この瞬間から、<勝って兜を尾を締めよ>である。


最後に、

表題の<彼が見た夢>。

アントニオは戦前、
ダモシには言わずに、
ワイフだけに語っていたことがあったようだ。

ワイフが事後、ダモシに打ち明けた。

<昨日言ってたよ。
 四〜五日前に、「優勝する夢」を見た、と>。

事後、アントニオは、
それを確認するダモシに言った。


<(その夢が現実になることは)、
  一回戦が終わった時に、感じた>

と。


アントニオは、
ダモシとの秘密特訓の最後に言っていた。

<分かった>と。"感じた"と。

そして
<今までで一番うまく出来た>と。


今回の、
すべてのアトモスフィアは、

優勝するようになっていたのだ。


012311A.JPG

012311b.jpg

金と銀。

もう一つが銀であることがポイントである。

武田信玄公に今一度、ご登場願おう。


<戦は、五分の勝ちをもって上とし、
 七分をもって中とし、十分をもって下となす>。




posted by damoshi at 02:17| スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月22日

教示と示唆



なにごとも勝負ごとの前夜というものは、
心なしか落ち着かないものである。
スポーツから受験、初デートなどなど。

本人も、直接的に関わる周囲も。
闘うのは本人には違いないが、
格闘技の場合は、"セコンド"もある意味でリアルに共に闘うことになる。

そして野球やバスケットボール、その他のように
直接的に戦略・戦術を練り、同じフィールドで
直接的に指示をする監督、コーチもしかり。

そう考えると、受験や入社試験、デート(恋愛)などは
そこに何かしらのsuggestionはあるにせよ
セコンドとして直接的にその闘いの時間と空間を共にすることはない。
その場でアドヴァイスや戦略戦術を授けることもない。

そういう意味では、スポーツは本人はもとより、
本人以外のウェイトも高くなる。

たとえば渡米までチームを持ち、己が監督として
関わっていた草野球。

たかが草野球、されど草野球。
たかが草野球でさえ、試合前夜は落ち着かなかった。
そして監督ゆえ戦略戦術の推敲や
オーダー(ラインナップ)の構築に頭と心を悩ませ、
眠れぬこともあった。

それが己が直系遺伝子の格闘技となれば、なおさらなのは
言うまでもないことだが、
だいぶ慣れてきたというか、落ち着きも出てきた。

今宵、最終のダモシxアントニオでの追い切り。

精度が上がった。

あの大阪ナイトメア以降、
フェーズを上げて、闘いのストラテジーに変化と進化をもたらせた。
その準備期間としては、一ヶ月半はまずは妥当であろう。

<あぁ、これまでで今が一番,強いな>。

そう思えるレベルにまで仕上がった。

闘いは相手がいることである。
対山、対海という部分での人間以外が相手ではなく、
多数の多種の人間が相手であるからして
やってみなくては分からない。
組み合わせにもよるし、相手関係によっても結果は変化する。

だが、今回に向けての現時点で出来得ることとしての
<勝ち負けするレベルには仕上がった>と感じられたことで
今宵はこれまでの闘いよりは、落ち着きがある。

何となく本人もワイフもダモシも、心が静かである。

結果はともかく、
<勝ち負けになる>レベルにあることはダモシが分かる。
これで話にならなければ
それこそダモシの根本的な間違いということになる。

1-2回勝てば優勝であったり、
勝ち負けを計算出来る(優勝出来そうだと予め分かっている)大会、
レベル的に<?>な大会などに出て、
そこで"勝ち負けする"(優勝を争う)ことは
もはや望んでいないから、出ない。

未だ前戦から一ヶ月半しか間隔は空いていないが、
他にもそういった大会はあった中でそれらには出ずに、
ある意味でタフな大会に満を持して登場するわけだ。

確実にこの一ヶ月半で、
彼が抱えるタスクを一つ一つクリアして
フェーズを上げてきた。

直にやっているから、それはダモシが身体で分かる。

それが実際の闘いで出るか否か。

仕上がったアントニオの今の力の発揮の<最大化>を
実現することができれば、
必ず勝ち負けになると読む。

最大化を実現できたとしても負けたならば、
それは相手がさらに強い選手だったということだけの話である。

前日追いの今宵のアントニオは、彼のキャリアの中で
ダモシが直接対峙した中では過去最高の状態にあった。
懇々と大阪ナイトメア以降で仕込んでいることを
フィーリングでモノにしたようである。

この状態で、身体的にも明日になって急に風邪など不調にならずに
そのまま闘うことができれば、
(相手関係は別として)どういう結果になるのか楽しみである。

朝七時台にまだ館長をピックアップして会場へ
ダモフィーロで走る。

明日は久しぶりに単騎乗り込みではない。
これもどのように奏功するか、楽しみである。

とかくコドモの競技に関しては
オフィシャル/アンオフィシャル/プライベート問わず
親のエゴで、好結果のときだけ掲載というケースが往々にしてあるが、

ダモシはそれに対してアンチである。
一回戦負けで語らず、優勝したときだけ語るのは
アンフェアであり、そこには教示は何一つ、ない。

惨敗しようが優勝しようが、いつもの如く、レポートする予定である。
物事、<勝った負けた>がすべてではないからである。

要するに何度も言うように
<勝ち負けするレベル>にあり、その中で
どのような闘いをするかこそが、最重要なのである。

負けることは恥ずかしいことではない。
そして優勝することだけが偉いのではないのだ。

そこのところを踏まえてこそ、である。
そして
そういった中にこそ、教示があり、示唆が生まれるのである。

なにごともそうだが、
教示や示唆がないものは第三者にとって何ら意味を持たず、
プラスにもならない。

それはただの自慢であり、報告に過ぎないのである。

ダモシが日々していると同様、
アントニオにも教示と示唆のある闘いを望む。
優勝しても負けても、である。


それにしても、と最近思う。

こうしてステージごとのレベルアップや綿密な準備を施す中で、
たとえば己が米における体験的ジャーナリズムでの
異種格闘技戦は、ほとほと良くやったな、と。

ボクシングにしてもロッククライミングにしても相撲にしても、
相手はその場になるまで分からなかった。
どの人種のどの階級のどういうボクサーと闘うのか、
どのくらいの恐怖と高さと難易度のロッククライミングを登るのか、
相撲はどういう人と、何人と、何番とるのか。
いま思い返すとゾッとするが
当時、何も微細に問わなかった。

常に、アウェイのそこに乗り込み、その場でアジャストして
すべて対応してやり切った。

このあたりは、振り返ると、恐ろしい。
まあそれも当時の勢いなのだろうが、
逆にいえば企画としてはかなり他にもあったのだが、
あのまま続いていればいつか大変な目に遭っていたと想像がつく。

三十代バリバリの、自信満々のダモシだったからこそ、
アレが出来たといえるだろう。

今ではもう、直系遺伝子の大会でさえ、ビビリ、畏怖を感じ、
常に繊細な準備を怠らないわけだが、
相手となる選手誰一人得体の知れない明日もまた
それなりの畏怖は覚えている現在であるが、


今回は妙に、心が平静である。



posted by damoshi at 23:43| スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

関口にて


青少年時代、否、未だ少年といえるであろう70年代後期。
或る日、少年ダモシは目白の大聖堂にいた。

そこで小沢征爾指揮する楽団の夜の公演を聴いていたのだ。

小沢征爾といえば、
オトナ・ダモシのニューヨーク時代にも、
世界最高のチェリストといわれた
ムスティスラフ・ロストロポービッチとの競演による
クラシック演奏会を聴くべく
カーネギー・ホールにも出かけている。

案外、"そのあたりも"造詣が、"そこそこ"あるのだ。
ふだん、語らぬが。

大聖堂での小沢征爾。
首都圏でも都心部。そしてオトナでも<どこ?>と思える大聖堂。
新宿や渋谷ならいざ知らず
当時・東京都下在住の少年ダモシが一人で出かけるには難儀だ。

当時、オフィスが渋谷だったウルトラの父が、
オフィシャル事案の合間を縫って
大聖堂まで連れていってくれた。

演奏会が終わった後の夜の帰路は一人。
酔ったオトナでいっぱいの西武新宿線に乗り、帰宅した。

そもそも<ひとり>が好きなダモシである。
後楽園ホールでの格闘技観戦も、
たびたび<ひとり>で出かけた。

クラシック演奏会もこの大聖堂の件のみならず、
今や大物バイオリニストとなった
イツァーク・パールマンのソロ公演にも
同じ70年代に<ひとり>で出かけている
(ホールがどこであったか残念ながら想い出せない)。

野球は仲間と一緒の方が良いが、
例えばボクシングやクラシック演奏会という
相反すると思われる種目であっても
<集中力>が必要になる=<なりふりかまわず己の世界に入る>
という共通項があるものは、圧倒的に<ひとり>が良い。

同行者との会話は不要な世界。

特に後楽園ホールのプロレス、ボクシングなどは
<ひとり>観戦にうってつけである。
仮に誰かと行くにしても
多くの会話を必要としない=通奏低音で分かり合っている
場合に限られる。

まあ、いい。

1のネタが100まで展開可能なのがダモログだから、
どこかで切らないと際限なくなる。
主題である<大聖堂>に話を戻すことが賢明だろう。

幼児、少年等の<コドモ>、
青少年の<ヤングボーイ>、
そして<オトナ>。

様々なステージを経て変化及び進化しているダモシは今、
<大きな五歳>である。
否、アントニオの年齢に合わせれば
<大きな七歳>になるのだが、
アントニオは年々、心と頭が成長しているが、
ダモシの場合は年々、幼児化している傾向があるから、
永遠に<大きな五歳>でもう、良いのかもしれぬ。

その<大きな五歳>の今、ダモシは、
あの小沢征爾指揮の演奏会観賞以来、
実に30数年ぶりにその大聖堂へ出かけ、中に入った。

その大聖堂とは、ここだ。

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カトリック系の人、建築系の人、
そして首都圏の人ならば分かるだろう。

東京カテドラル聖マリア大聖堂。

そしてこの建築ポスチャーを見て気づく人も多いだろう。
何かに似ているぞ? と。

さふ。

アントニオの昨年11.28の件で度々取り上げた
国立代々木競技場(東京・代々木)である。

この建築物。二つの建築デザインはいずれも丹下健三氏。
己が葬儀もここで行われ、
吉田茂元首相の葬儀もこの大聖堂で行われた。

さながら、
ダモシ大好き建築物の一つである、
ジョン・F・ケネディ元米大統領など偉大な先人の葬儀が
多く行われたニューヨークの
セント・パトリック教会の、日本版ともいえようか。

ニッポンで大聖堂といえば、
ニコライ堂(東京・神田)や
大浦天主堂(長崎・長崎)が浮かぶが、
スケール感やロケーションからも、やはりこの大聖堂が横綱格か。
向かい側にはメジャーなウェディング・セレモニー会場、椿山荘がある。

この椿山荘にも渡米以前の社会人時代、
取引先の人の結婚式への列席で出かけたことが一度、ある。

また話が展開しそうなため、また大聖堂に戻したい。

30数年ぶりに東京カテドラル聖マリア大聖堂を訪れた
<大きな五歳>ダモシは、
ここで『沈黙』し、そして『祈り』を捧げた。

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ヘビー級のダモシがより大きく見える。
ダモシには狭い空間で跪き、両手の指を重ねて祈りを捧げた。

祈るは当然、今週末のアントニオの試合の件である。

今回は神社仏閣ではなく、ここ大聖堂に切り替えた。

そもそもダモシx教会の関わりは、ある。

98年頭。

<もうニッポンの神社仏閣は、ダメだ。
 まったく、何一つ、願いを聞いてくれない>と怒ったダモシ。

前年、ウルトラの父、逝去。
ウルトラの父の闘病時、最期までの時間。
ダモシの神社仏閣への真摯な祈りは何ら通じなかった。

だからその翌年の初詣は取りやめて、教会で祈りを捧げた。
夢の、悲願の、渡米が決定したのは
それから二ヶ月後のことであった。

その二年前。渡米は実は決まっていた。
だがウルトラの父、闘病中。
置いていくことは出来ず、またそんな中で行っても
心が中途半端になり、闘いも中途半端になる。

悩み抜いたが、最後はそう判断し、
わざわざ米からダモシ強奪のために上京していた
米国人の滞在先へ電話して断りを入れた。

氏は社のミッションを達成出来ず、成果ゼロで本国へ帰った。

もう二度とチャンスはないかもしれない、と思った。

が、ウルトラの父逝去の際に感じた
<どんなに強い存在でも必ず人は死ぬのだな。
 ならば、ならばじゃ!
 己がやりたいことをやらんでどないすんねん!>
という強烈なるソウル。

これが三十路に入っていたダモシを奮い立たせた。
そしてアクション。
そして教会での祈り。
二ヶ月後の実現決定。

こうしてダモシは渡米し、
最後はその地であるニューヨークが<愛人>になるまで
濃厚な1ディケードを過ごすことになったわけである。

当然ながら、当地でも教会で何度となく祈りを捧げた。
洗礼を受けたわけでもなく、
敬虔なクリスチャンでもない。

だが教会という場での振る舞いや、真摯な態度はわきまえている。
そして、沈黙することも。

アントニオの件で、ワイフに告げた。

<今回は俺は教会で祈るよ>と。

<総裁の墓参をして、
 そこから徒歩で大聖堂へ行ってくるよ>と。

総裁とはむろん、ゴッドハンドである。

こうしてダモシは大聖堂で沈黙し、祈りを捧げたのである。

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30数年前もここに座り、小沢征爾指揮の演奏会を観た。

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大聖堂への正門入口側。
ここから見ると、建物自体が十字架になっていることが分かる。

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ルルドの洞窟と聖母。

霊泉が涌き出て、その水を飲むと
不治の病が治る奇跡が行われたという
フランス西南部の町はずれの洞窟に聖母が現れた、と。
現在はそこに教会が建てられ
一日に七万人〜三十万人が参詣するという。

ここにある洞窟も1911年に、
フランスのそれとまったく同じ大きさで作られた。

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大聖堂を後にする。
最後に大聖堂と椿山荘を結ぶ歩道橋上から
同行していたアントニオ・フォルムカードと記念撮影。

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本人が行くことができないため、
分身としてアントニオ・フォルムカードが各所を同行である。


*****


時系列でいえば、

護国寺(ゴッドハンド墓参)

東京カテドラル聖マリア大聖堂



という流れだが、護国寺は最後に記載。
<次>の関口芭蕉庵へ向かう。

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いかにも東京江戸風情に不可欠な、微睡む猫。
芭蕉、江戸、猫。これは欠かせぬセットである。

日だまりに猫。
猫好きアトモスフィアで猫も察するのだろう。
人は警戒するダモシでも
猫は逆に身を委ねてくれる。
ダモシが近づいても、たいてい猫は逃げずに、逆に甘える。

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ごろごろと音を出し、座っている姿勢から楽になり、
寝転がって、<さすって>と求める。
さするとまたごろごろと喉を鳴らす。

常在戦場ダモシが唯一といって良い、
リラックス出来る時間=猫、である。

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<古池や…>句碑が建つ芭蕉庵。

関口の庵は、芭蕉が三十三歳から三年間住んだところである。
<おくのほそ道>に出る際の庵は深川(既掲載済)。

<おくのほそ道>から遡ること十年以上前のことである。

この敷地内には、
芭蕉の死後つくられた木像が祀られている芭蕉堂がある。

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ダモシはここでも祈りを捧げた。

<芭蕉さん。おくのほそ道を辿っています。
 昨年はアントニオも山寺や平泉に詣でましたよ。
 だからお願い致しますよ、ほんとうに>

と。

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*****


最後は、護国寺だ。

今宵、いただけないポスチャーが展開されていた。
数日後、ここで消防訓練が行われるようで
大挙として境内に消防車や隊員がいた。
さらには境内の道にはホース。

これでは、ダメだ。
静寂なる寺でこれはいけない。
隊員に聞こえるようにダモシは言った。

<けしからんポスチャーだな。写真も撮れないぞ,邪魔で>。

消防車やホース、隊員などが映らぬように撮ると、
↓ こうするしかなくなるわけだ。


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おそらく、
公共性の高い営みというエクスキューズがあるのだろう。
無意識のうちに。

だから我が物顔で境内を占拠しているそのポスチャーは
ダモシ的には不遜な態度とみなされて
<邪魔だ!>と怒らざるを得なくなる。

寺は、そういう場ではない。
寺側ももう少し参詣者への配慮が必要ではないのか。
寺側が厳しく指示しなければならない。
参道にホースを置くな、消防車を脇へ止めなさい等々。

ダモシは護国寺を写真に収めるべく訪れたわけではないが、
参詣目的はもとより
もう一つの目的として
地方から旅で来ていて良い写真を撮ろうと考えていた人には
たいへん残念なポスチャーとなっていたのは
いかがなものかと言わざるを得ないわけである。

<こういう部分もニッポンのダメなところだな>

とまたもや率直に感じてしまうから、
怒りは一向に消えないのである。

しかしダモシは気持ちを切り替えた。

主目的なゴッドハンドの墓参、であると。

昨冬に続いて二度目の墓参。

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総裁に真摯に語りかけ、祈りを捧げた。

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*****


山寺、そして平泉中尊寺、毛越寺、高舘義経堂…。
頻繁に毎回行くことはできない。

今回のこの三本立てでの祈りが、
どういう結果をもたらすか。
それによっては次回もこのコースになろう。

むろん、神頼みではない。
あくまでも祈りを捧げるのである。

闘い、戦い、戦(いくさ)。

そこではすべては、勝った負けたではなく、
<勝ち負けする>ということと
そこに臨むにあたり己の力の最大化を実現出来るかが
最重要である。

何度も言う通りであり、このイデオロギーは変わらない。

ただし、マスト・ウィン・シチュエーション
というものも時にはある、と。

ダモシの対米のように。

且つ、同時に、
信玄イズムに詳しいように
<戦は五分の勝利をもって上となす>ということもある。

すべての基盤は、闘いは参加することに意義があるのではない
ということであり、
<やる前に負けること考えるバカいるかよ!>
という強烈なる反抗心であり、

その競技、その相手、すべての関わる者、環境に対する
最大礼儀、最大尊敬として
闘うならば必ず<勝ち負けするレベル>に仕上げる
ということが通奏低音としての根本的イデオロギーである。

勝負は常に紙一重であるべきで、
そこに関わるならば必ず<勝ち負けになる>レベルに仕上げて
臨むべし、という厳しい考え方である。

そのために常に稽古をし、個別稽古もし、
そして<出来る最大限のこと>の一つとしての
ゴッドハンドへのリスペクトや
寺社仏閣等への参詣なのである。


今回の闘いへ向けて、<出来得るすべてのこと>は
いつも通りに進めている。

残り二つのうちの一つである行為を今宵した、ということである。

明日、ダモシxアントニオで最終追い切りで、
<勝ち負けになる>レベルに仕上げる。

今宵、"今回"に関しての準備の、一つが終わった。


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青空に聳える十字架の塔、ルルドの洞窟の向こうに
サンシャイン60が見える。

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大聖堂で十字架を買った。当日はこれを胸に臨む。

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今宵受け取ったお言葉。



posted by damoshi at 00:52| スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月20日

プーチン・ダモシ初め



またまた招かざるプーチン・ダモシ登場である。
11年のプーチン・ダモシ初め。

今週に迫ったアントニオの11年・戦初め。
タフではあるが、過去相性の良い極真系である。
アントニオの闘いはすべて他流試合である。
年間通しても格闘技ゆえに毎週毎週出られないが、
昨年で見ても極真系の大会乗り込み時の相性が良い。

木金とフルーやノロ系などで体調を壊さなければの話だが、
調子は良い状態である。
このまま臨ませてやりたい。

直前にも拙宅で追い切りはするが、
競馬に等しく水曜追いということで
今宵はまた拙宅至近のスポーツセンターを貸し切って
二時間たっぷりと稽古を施した。

今宵はダモシの友人も助っ人で参戦。

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今回の大会は闘い(組手)のみならず型(演武)も参戦する。

型はずっとワイフの担当だ。
まずは最初の三十分を型の練習に費やす。
その間、ダモシはまた例のごとく意味不明な動態とプーチン化である。

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<高校の時は千回やったぞ。
 まだまだ百回は出来るぞ?>と腕立てをするプーチン・ダモシ。

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前回は用具室からロープを見つけて動態を見せたが、
今宵も悪役レスラーが
リングのエプロン下から凶器を物色するかのごとく
用具室内を探して金属棒を見つけ出したダモシは
それを用いてトレーニングを開始した。

どういう意味があるのか、分からない。
独自の棒術なのか、筋肉トレーニングなのか。

そして、なぜ裸である必要があるのか。

その意味を己自身も見出せなかったダモシは、着た。

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ミラー越しにシャドウでキック練習をするダモシ。

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常に腓腹筋断裂の再発の懸念がある。
今宵も二度、切れかかり<うっ…>となった。
実演する場合、相応の事前運動をしなければならない。
それだけもう齢も重ねているということでもある。
(むろん筋断裂に年齢は関係ないが)。

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ミラー越しに型の練習をするアントニオの姿も視界に入る。

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今回の大会は、型はアントニオの当該学年(小学一年)
だけではなく、二年生とも同じトーナメントになっているのが
いささか不満である。

組手ほど学年差は出ないが、それでも学年が上であれば
キャリアが上の選手が多いのが当たり前だ。
学年ごとで闘わせる方がフェアであることは言うまでもない。

勝負ごとは常にフィフティ・フィフティではあるが、
ニュートラルな観点では
一年生だけよりも勝てる確率は下がるのは当然である。

むろん相手がどうあれ、ダモシも本人も
<やる前に負けること考えるバカいるかよ>という
いつも通りのイデオロギーには変わりはないが。


その後、一時間半をかけて闘いの稽古を施して終了。

助っ人としての友人が、
実演するダモシの技を受けてくれたことで
さらにより分かりやすくアントニオに伝わることもあり、
中身の濃い"不易流行"な稽古をすることができたウェンズデイ・ナイト。

明日、道場で稽古し、もう一度最後に拙宅で直前追いをして
大会に臨む形となる。

むろん最高の構図は、ダブル優勝であることは言わずもがなであるが、
勝ち負けはもとより、
いつもと同じく、本人が持てる力の最大化を実現することが
最も重要なKSF(キー・サクセス・ファクター)である。

それが出来るよう誘導・後押しすることが、
これもまたいつもに等しくダモシ軍のミッションである。


*****


その大会の後は、3月初旬の大会になる。
それは昨年の11.28とほぼ同じ世界になる。
いわゆるニッポン代表が勢揃いする大会であり、
11.28のリベンジも兼ねる。

たっぷりと、じっくりと、微細に渡るまで
そこに出てくる他のニッポン代表を分析するためのツールは、ある。
昨年の11.28の全試合収録されたDVDである。

先々週、到着したDVDと写真。
当時も書いたが、まったく負けを認めていない試合であるが、
映像を観ても写真を見ても、それはまったく変わらなかった。

圧勝であった。
そして11.28で準優勝している選手にアントニオは勝っている。

そういう意味では、勝負は常に紙一重ということを具現化
しているわけだが、三月のその大会まで
戦略的に間を一ヶ月とっているのは、
徹底的に相手選手たちを分析する時間と準備の時間のためである。

ダモシの競馬観と同様に<ムダなレースには出ない>主義を徹底するわけだ。

その三月の大会には、
ダモシの友人はもとより
アントニオの"彼女"とその母親、アントニオに懐いているその弟も
応援観戦に来るということが今宵、述べられた。

オープンやGIIIレベルではなく、GIIやGIという
規模も大きくレベルも高くなればなるほど、
そして応援がいればいるほど
<本気>(良いカッコをしたくなる)を出して
動きが良くなるアントニオのことである。

大いに歓迎であり、
それを聞いたダモシは
その女の子のためにまたオリジナルのスペシャル・チケットや
グッズを作ろう、と思った今宵である。

むろん、その女の子のネーム入りとアントニオのイラスト入りである。

友人が描いてくれたアントニオのイラストを用いた
オリジナルTシャツも完成して明日の納品となる。
今週の大会へはそれを着用して行くことができる。

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絵での仕上がりデータである。
実際にどのように仕上がってくるのか楽しみである。
Tシャツ地色はもちろんニューヨーク・ヤンキースのカラーである。

ダモシのカスタマイズ手帖にもアントニオ・イラストは入った。

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あとは、今回の大会前にやることは、
ゴッドハンドの墓参と
教会へ行って沈黙し、祈ることである。

またその件はレポートする予定である。




posted by damoshi at 01:23| スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月15日

ハシャぐ人&切る人



今宵はウルトラの父の命日である。
ワイフが花を買ってきて線香をあげたところだ。

ウルトラの父は、己がまずはライフの愉悦と充実に生きた人だ。
没後、エポックごとにウルトラの父にお祈りするケースは多い。
対富士にせよ、その他もろもろ。
特にアントニオの空手が始まって以降は多い。

が、基本的にはその願いが満願成就したためしがない。
もちろん好意的ではあるが、
ダモシもワイフも「もうウルトラの父にお願いしない」と笑う。
お願いした際にそれをかなえてくれないのは、なぜなのか、と。
意図的か?と。成就しない方が長期的に見てプラスだよ、と。
そういう世界なのかもしれぬが真意は分からない。

来週のアントニオの大会の件は、ウルトラの父に「お願い」せずに行く。
むろんゴッドハンドの墓参は直前でするが、
今回はいつもと趣をかえて教会へ行き祈りを捧げる予定である。

実は、相対的に見て教会で祈りを捧げた際の方が、
その願いに対する成就実績は高いのである。
むろん神社仏閣でのそれも実績はあるが、
いずれが良いのかは決められるものではなく、
これもある意味でノンアルコール・ビアの世界で
気持ちの問題ともいえようか。

そもそも特定宗教を持たず、信仰心も高いとはいえぬダモシであるのだから。

まあ、いい。

いずれにせよウルトラの父が逝去してから14年。
早いのか遅いのか、何ともいえぬ。
来年が没後15年のメモリアル・イヤーになるのだろう。

今年はダモシ生誕45周年イヤー。

それはまた同時に、仮面ライダー40周年であり、
ダモシと同級生のウルトラマンも45周年で
やはり同年エポックのビートルズ来日45周年でもあり、
後のダモシに圧倒的な影響を与えた
<猪木vs.アリ>戦からも35周年のメモリアル・イヤーである。

ちなみに今年は故ダイアナ元妃や故忌野清志郎の生誕50周年でもあり、
西新宿摩天楼の東京都庁舎開庁20周年、安土城築城450周年、
マクドナルド日本店(銀座)開業40周年、
日本競馬史上初の三冠達成(セントライト)60周年、
ジョン・F・ケネディの米大統領就任50周年などなど
メモリアルは多い。

ダモシ的な極めつけは、あのニューヨークの9.11テロから
今年は10年というメモリアルということが挙げられる。

ウルトラの父没後14年(来年15年)と9.11から10年という
この二つに関しては、案外時間が経っていないのだなという感慨と、
結構経っているのにマインド的にはさほど経っていないな
という不思議の、二つが相半ばしているといったところである。


*****


今週、オフィシャル事案で東京ドームへ出かけた。
全国ふるさと祭というイベントが行われているからだ。


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昨年も同時期に行った。
今年の川崎大師もそうだが、東京ドームのこのイベントも、
昨年比で大幅増の人混みだった。

なぜなのか、と。
なぜ今年はこんなに人混みなのか、と。

二つの同じイベントを、同じ時期に行くことで
昨年と今年の人出とそこに漂うアトモスフィアを相対的に
計ることができるわけだが、
明らかに、今年の方が圧倒的に人が多く、
そして皆々様、ハシャいでいる。

なぜ、皆々様、ハシャいでいるのか。
それが今年のまずは様相の不思議な点である。
一般ゼネラル的には明るい話題はない。
それどころか民主党があの体たらくで失望感も高い。
というか、そもそも期待していないのか?となるが、
言ってしまえば皆、期待したのだ。
だからああいう選挙結果になり政権交代したのだ。

そういった「やはりこの国はダメか」という
もう、もしかしたらダモシとは違い、
あきらめ切っているのがニッポン人なのかもしれない。
だから個の世界観に入り、その中で出来るだけ仲間との時間に勤しみ、
そうすることで社会参加している勘違いをして
欲求を満たす。

人とどこかへ出かけ〜そのどこかは出来るだけ人混み〜、
そこで大いに楽しむ自分を、自分の心で見るマイセルフすることで
己が本当はつまらない日常を満たす。

この世界ではないか,と。
リアルに"盛り上がっている"のではなく、
そこに意図的に絡んでハシャぐことで
ひとときイヤなことを忘れられる。
自分は友だちがいっぱいいて、こうして人がいっぱい来る場所に来て
楽しむことができるのですよ、という見せかけ。

今週、珍しく"終電"まで飲んだが、
夜の繁華街にしても駅にしても、
その東京ドームにしても、
皆々様、奇妙なくらいにハイテンションでハシャいでいる。
クリスマス期には見られない趨勢。

ここがミソである。

クリスマスなどにはそういう相手が不在で、
リアルなそういう時期が終わり、何でもない今の時節に、ハシャぐ。
電車内で駅で、そういう人混みの中に己の身を置いて、
常に携帯をイジり、ダモシから言わせれば
「あぁ、友だち多くていいわね」という世界観で
何度もメールや電話がかかってくる自分に酔い、
社会参加している己の見せかけへの満足。

そういった輩はダモシ的には苛立って仕方がないのだが、
そういう存在がわんさかいるような
東京ドームや"終電"まで飲むような時間帯の繁華街に
ダモシ自身もいるから、それはそれで致し方ない,と。

川崎大師の行列の阿呆面と同じである。

<そういうダモシも今まであの列にいたのよ>という
ワイフの言がすべてを言い表している。

"珍しく機嫌が良い"というレベルでの機嫌が良いことはあっても、
ハシャいだり、上機嫌、破顔一笑ということはもはやあり得ない
ダモシからすれば、

ほとほと不思議なのである。そういう皆々様が。
よっぽど幸せなのか? よっぽど、やることなすこと上手くいっているのか?
と。

さふお聞きしたくなるわけである。


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こういった「ふるさと」「ご当地」系のイベントが
東京で開催される場合の、ダモシ的な忌々しい部分は、
<現・東京在住の、ローカル出身者>が大挙として押し掛ける点である。

これは明らかなので揶揄ではないから言ってしまうが、
残念ながらローカル出身者は、いささか品がない。
「興奮」した時の色合いに問題が多い。
言わば前後左右見境がつかなくなるのだ。テンションが上がると。
道も己がモノと勘違いし、人混みでの歩き方=作法がまったくなっていない。

ニッポン全国都道府県の出身者の現・首都圏在住者が集えば
どうなってしまうかは、言わずもがな。

川崎大師と同じである。
人混みの中における「歩く作法」「並ぶ作法」からして
大きな問題を露呈する。

だから苛立つのである。一つには。

且つ、地声が大きい。たいていローカルの人は地声が大きい。
これがまた困ったもので、
ある意味でこういうイベント会場は「旅での恥のかき捨て」同様になる。

こういうイベント会場だから良いだろう、と。
楽しむものだからいいだろう、と。
そういった無意識のエクスキューズが働き、
都会的にして社会的な作法をまったく忘れてしまうのだ。

だから歩くこともままならない/すれ違うのすらできない
レベルの超人混みの中にあっては
どうしても見えないところでヒザ蹴りやボディブローなどが出てしまうのである。


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同じイベントや祭を楽しむのでも、
<踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損>と、
先述したような<作法知らず>は、まったく違うのである
ということを理解して頂きたいのである。

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へたすれば、"なまはげ"に対しても、
ハシャいでいる人々は
まるでご当地ゆるキャラに接するのと同じマインドで相対したりする。
こういうリスペクトのなさも、大きな問題であると
ダモシは普通に思うのだが、いかがか。

まるで、なってないぞ!

と怒るのである。ダモシは。


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祭:まつり。
ニッポン人なら胸高鳴るアイコン。

太鼓その他のサウンドがもたらす聴覚効果に、
屋台などが漂わせる嗅覚効果、そして全体的なダイナミズムとしての視覚効果。
それらをもってして、祭を前にするとニッポン人は自然と高揚する。

だが、<高揚>と<見境なくハシャぐ>ことはまるで違うのである。

ニッポン人の悪いところの一つは、高揚するとハシャぐことである。
ハシャぐという悪い意味での言葉の中には、
ハシャぐとやたらめったら見境なくなり、作法を無視し、
リスペクトをなくし、ネガティヴな方向での自分本位になってしまう
という意味が含まれている。

格闘技での基本。

攻めている時こそ盲点、である。
相手が攻めてきている時こそが穴があり、チャンスなのだ、と。

ハシャいでいる面々は、ワキが甘くなる。
自分らだけで内輪でなら良いが、
一般ゼネラルな場でそれをやることが問題なのである。


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500円もの高額を支払い、
たったこれだけ?というレベルの量のどんぶりを食す
<全国ご当地どんぶり選手権>も併催。

この行列,何と「二時間待ち」。

もうダモシ的にはまさにうってつけの

<アホウ!>

と叫ぶ題材である。


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見てくれ、この阿呆大群衆を。
こちとらオフィシャル事案だから訪れるが、
プライベートでは絶対にどう間違っても
この類いのイベントには足を向けることはない。

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歩けない。まったく歩くことができない。
そして、このほとんどが、作法を知らないから
とんでもないことになるわけだ。

ほとほと、困ったものである。

まあ、いい。


*****


今朝、例の肉を買う際に行くスーパーマーケットへ行った。

今宵すき焼きにしよう、と。
当然行けば、豚トロを買うことになる。

<買っておこう>と。

1パックだけ出ていた。

が、もう、それはそれは、安物のカルビか?
はたまたステーキか?これは、というレベルの分厚さ。

ダモシはそれを見た瞬間、ワイフを呼び止めた。

<見てくれ、これを。ステーキだろ、これじゃあ。
 もうこれは言わんとダメか?>。

肉担当調理者が不在で、鮮魚担当のおばさんに述べた。

<これを薄く切ったのをください>。

そして持ってきた肉担当調理者。
手には10パックもの豚トロを持っている。

<いかがでしょうか>と。

先般とは異なる店員だ。
すべてのそれを見るダモシ。

<ダメだな。まったくなってない。
 そもそもコレ、ステーキでしょ。カルビ?
 去年の冬前までは、まるでトロか?という世界で、
 トロだったのだよ、ああ。
 ところが冬くらいから、ここ三回目よ、三回。
 三回つづいてコレだもの。
 もっとね、薄くてね、言ってしまえばトロですよ、トロ。
 おお、コレはトロだぜ、と。色もね。
 それがどうですかこの体たらくは>

<ええ…>と判然としない店員。

ならば、とダモシは述べる。

<前回来た時に言われましたよ。
 "切る人によって違いますから"と。
 それってどう…>

と言葉をそのまま
<どうなのよ。おかしくない?
 そういう台詞を言ってはいかんでしょう>と言おうとしたら、

その店員の顔色が変わった。

<えっ。そんなことを言ったのですか?
 切る人によって違ってはダメですよ!
 しかもそれを言ってはいけませんよ!>

と述べたのである。

まさにダモシが言おうとしていることを
その同じ傘の下で働いている店員が自ら言った。

ダモシは心の中で、
(<コイツはデキる。よし、それでいいぞ!>)と
快哉を上げたのである。

しかも、だ。

ダモシが
<それ、言っておいて。ちゃんと>と言おうとしたら、

店員はまた機先を制して述べた。

<ダメですね、それは。言っておきます!>と。

ダモシ、形無しであるが、
ダモシはそれは素直に認める人間である。
大きく頷き笑顔を見せた上で、

<言っておいてください。
 そういうことをこそ会議でやることだ。
 報告じゃないよ,報告じゃ。タスクだよタスク。
 ニッポンの組織はムダな会議ね。
 会議じゃなくて報告会になってるのが多すぎるのだよ>

と述べた。

すると店員は、
<そうなのですよ。報告はふだんやることですから。
 ミーティング、会議…、
 ほんとに意味のないのが多くて弱りますよ>と同意した。

このヤングボーイ店員〜とは言っても三十路だろうが〜は、
ダモシ的にいえば<本質的な人間>である。

ナアナアは、やめよ。
ぬるま湯プロレスは、やめよ。

これで良いのだ。

そして、これをちゃんと言うかどうか、だ。あとは。

次回、その店を訪れた際に
豚トロがちゃんとなっていなかった暁には
ダモシはまた言うだろう。

そしてその時、その店員がいたら、言うだろう。

<ちゃんと、言ったの?>と。

彼がニッポン人特有の嘘つきではないことを願う。
ああ言っておいて、
いざ会議になったら発言しない/何も言えない/ナアナアで済ませる
ティピカルなニッポン人ではないことを希望する。

いずれにせよ今宵も、とりあえず
見た目は及第点な豚トロを買ったわけである。


まあ、まだまだあるが、
今宵はこれからアントニオとまた個別稽古のため、
このあたりでひとまず留めておく次第である。



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2011年01月12日

Earthquake Cloud



そのまま訳して<地震雲>。

今宵、下町。
女性の軍団が空を見上げて口を開いた。

<あっ。地震雲だ>。

地震雲というものがどういうものかは分からないが、
今宵の空と雲を指して言っていたから、
それに近いものなのだろう。

東京大地震が来れば本物、ということになるだろう。

たしかに怪しい空と雲だった。
そう言われれば、何かが起こりそうな。
人が多いエリアにも関わらず、奇妙な静けさが漂い、
その中をサイレント映画のような聴覚感で車が往来していた。


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雲が向こうからスリー・ディメンションのように、
放射状に差し迫っていた。

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かと思えば、急にそれは段々に姿を変えた。

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何となく気味の悪い雲である。

夕景の中にある雲もまた、何かを放射しているかのようである。
写真のせいではなく、実際の雲がこうだった。

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だがその後、大地震は起こっていない。
未明か夜明けか、明日、起これば、
これが地震雲ということになるのだろうし、
何も起こらなければ珍しいが普通に存在する種類の雲で終わる。



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2011年01月10日

初詣のよゐこたち



今年も例の、ダモシが揶揄するアイコンの一つである
<えべっさんの福男選び>徒競走が行われた。

その映像を観ながらワイフに言った。

<一度、これで一番になった福男の
 その一年が本当に福だったか、
 "その後の福男"を全部追いかけてくれないかね。
 そして、それをデータ化すると面白いぜ>。

ワイフは言った。

<本当に良いことがあったか、と?>。

那須でワイフは300円の当たり券を換金せんと
年末ジャンボ宝くじの換金場に並んでいると
一人前のおばさんが随分と多くの札を受け取っていた、と。

<いくら当たったのですか>と問えば、
<50万円当たったのよ>と答えたという。

この人の
その後の今年一年がどういうものになるか、知りたい。


ダモシは性格が悪いので、
いずれも<その後>がダメになっていることを期待するわけである。

ダモシに限らず、
人という生き物は、己と関係のない他人の幸福は疎ましいものである。
<いひひ>となるのは、他人の失敗や転倒である。

その根幹には、
<そんなに物事、上手くいくかいな>という思考がある。


*****


09年が三が日の2日、
昨年が三が日終わってから最初のウィークエンド。
そして今年も昨年同様。

本妻復帰後の三年続けての川崎大師への初詣の日程である。

<年>という括りでは、

信玄の"戦いは五分の勝ちをもって上となし…"や
大相撲の1場所で喩える訓示である
"人生八勝七敗で上出来"ではないが、

一年間という1シーズンにおいては良いことも悪いことも
ある意味で平等に訪れるものである。

むろんシーズンによっては、

A. やることなすこと上手くいく
B. 悪いことばかりが重なる

ということも多々あるが、
相対的に見ればBは誰の身にも周期的に起こるが
Aは一般ゼネラル的にはほとんどない。
逆にAシーズンがあったならば、人は密かに感じる。

<こんなに良すぎて(幸せすぎて)、次が怖い…>と。

だから、戦いは五分の勝利をもって上とするのであり、
八勝七敗の論理というものが的を得るのだ。

<一番(一位)>や<優勝>を目指し、
マスト・ウィン・シチュエーションにある者に対して発する
台詞としては

<二番じゃダメなんですか?>は、失礼極まりなく、
ダモシならブチ切れること請け合いだが、
ある意味であの蓮舫女史の台詞は、
一つには
そういった八勝七敗論理を内包しているともいえるのである。

実際、オトナの日々の路上でも
コドモのコンペティティヴな営みでも<圧勝>や
勝つことだけを主眼においた所作は、美しくはない。

要は、マスト・ウィン・シチュエーションでの必勝と、
そうではないところでの魅せる要素を鏤めた上での"負けもあるよ"
というバランスが大切になってくるということである。

競馬でいえばディープインパクトやシンボリルドルフは面白くなく、
シンザンやウオッカ、ブエナビスタは面白いということである。
格闘技でいえば、総合格闘技が単に勝つだけに邁進することで
面白くなくなっていることに対して、
プロレスは魅せる要素が満載であるからこそ、という部分である。

野球(MLBとプロ野球)、NBA、NHL、NFL。
長いシーズン単位でのコンペティションの場合、
そのシーズンを全体を通して勝利する際のポイントが、
この八勝七敗の論理であり、戦いは五分をもって…という世界になる。

よく、<開幕ダッシュ>云々というが、
人生も投影されるように、
十連勝してもそこで生まれる貯金はある局面がやってくると
一気になくなってしまう。

三連戦があれば、常に二勝一敗あるいは一勝一敗一分で乗り切っていって、
<借金>を作らないことこそがポイントになる,と。
そして終盤の勝負どころの
マスト・ウィン・シチュエーションの六連戦で
いかに六連勝して抜け出すか。

これが包括的な勝ち負けという部分での成果、すなわち、
ダルマに片目を入れられた状態でまた同じ初詣に出かけられる
ということにつながるのだと感じるわけである。


*****


さて、川崎大師である。

川崎というエリアはまたダモシを怒らせる地だ。
言ってしまえば、川崎・立川・八王子などは
首都圏でいえばダモシが完全に嫌うエリアであり、
そこに降り立つだけでその地のアトモスフィアに苛立ちを覚える場所だ。

川崎競馬を除き、その嫌いな川崎へなぜ行くのかといえば
初詣で川崎大師に行くからに他ならない。

上記の考え方に則り、川崎大師へ初詣をするようになってから
1シーズンを通して良いことも悪いことも起こる中で
それでもまだダルマに片目を入れられるような状態ではあるから、
初詣の先を変える必要がない。

だから未だ三回目だが、恒例化しているわけである。
その日程が冒頭に記載した通り。

そして、その三度とも川崎でダモシは怒っている。
一昨年は京急電車内で、昨年は境内で、今年は境内へ向かう参道で
それぞれ怒って吠えている。

困ったものだが、ダモシからは決して仕掛けるということは
日常の路上ではないことであり、常に相手から仕掛けているケースだ。
相手をかわいそうだと思うとすれば、仕掛けた相手が悪かったという他ない。
仕掛けたら最後、徹底的に責任をとらされるからだ。

思うのだが、ああいった街のアトモスフィアと大群衆の中では、
ダモシに限らず、苛立つ人も多いのだろう。
なんとなく苛立っていて、それをたまたま向けてしまったら、
相手が悪かったということになるのだろう。

ほとほとダモシも、あの大群衆は辟易とする。
初詣の川崎大師だけは、ダモシもそれを避けられないのだ。

というか、避けるために三が日を外したところで行っているのだが、
多くの人もまた同じことを考えてしまっているのだ。

昨年も<なぜ三が日じゃないのにこんなにいるのだ!>
と感じたが、
今年は昨年以上にその状態になっていた。

朝もはよからR-246も渋滞。
<今日のこの午前くらいガラガラであるべきじゃろうが!>
と早速、怒る。

以前も記載した通り、川崎を筆頭とするJRタテラインは
ほとほとロケーション的に不便極まりない。

電車で行くにも車で行くにも、
ほとほと川崎というのはよろしくない。

川崎へつながる道路は交通量に比例せず一車線が延々と続く。
信号が、不必要なほどに多く存在する。
そして未だ休日モードか、不慣れなドライバーの
おたんこなすドライヴィングが頻発する。

たかだか川崎までで一時間もスペンドするのは、
どうにも許容出来ないのだが、
それに輪をかけて川崎大師の三が日でもないのに
なぜこんなに三が日と同じくらいの人がいるのだ
という人間大渋滞のせいで、
初詣だけで数時間スペンドせざるを得なくなる。

まったくもって困ったものである。

それでもダルマに片目を入れられるレベルで
1シーズン進められるのであればこその川崎大師である。

昨年は全国で三が日の初詣人出ランクで三位だった川崎大師。
それだけ人が多いということである。

その人出は首位の明治神宮(320万)、
二位の成田山新勝寺(298万)に遜色のない296万人。

昨年同様、参拝を終えたダモシは上から目線でアレをやった。

そうすることで己がこれまでスペンドした時間への
苛立ちを解消するわけである。

群衆の中でおしくらまんじゅう状態の面々を
上から目線で俯瞰して笑って差し上げることで消化する。

<去年と同じで、またここから阿呆面を撮るぞ>と。


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ほとほと許し難い。
この状況を目にしたら、己がイズムとしては
絶対にこの中に己を置くことはない。

だが、やんごとなくここに今まで己もいた。いざるを得なかった。
それに対する怒りを消化する方法として、
<いっちぬ〜けたぁっ!>とばかりに"見下し"て、<アホゥッ!>と叫ぶのだ。

ニッポン特有の、赤信号皆で渡れば怖くないのティピカルな図が、
この初詣の阿呆面である。


<皆々様、よく平気だな>とダモシが問えば、

<人混みが好きな人もいるんだよ。
 それか、しょうがないと割り切ってるか>とワイフは述べる。

<まあ、そうだよな。あとは、結局寂しがりというか、
 人混みの中に身を置くことで社会参加しているという
 安心感を得たいのだろう。それがニッポン人だ。
 仲間外れがイヤなんだ。皆がいるところに行くことで、
 自分も乗り遅れていないのだという確認が欲しいんだよ>

<あの中にいて、イヤそうじゃないからね>

と、ダモフィーロ内では会話が交わされたが、
このニッポン人の行列好き/渋滞好きは民族的な傾向だろうが、
その根底には、社会参加したいという特有の、やはり結局は、
赤信号皆で渡れば怖くない思考があるのではないかと感じるわけである。

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*****


最後に、一つの核心的な画像を。

<よゐこ>ぶるのもまたティピカルな傾向のニッポン人だが、
ダモシ同様に性格の悪い輩も多いのだよ?
実際には、ダモシ同様、上から目線であそこから振り返って
阿呆面を見ている人、結構いましたよ?

の図である。

絶対、それがいるだろうと思っていて狙って撮った。

物事の本質である。
いくら<よゐこ>ぶっても、これがリアルなところである。
その意味では、ダモシ的には<それでいいぞ>となる。
だからあえて目線はつけない。

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忌々しい、無駄な時間のスペンドと、
<なぜ、今ごろこんなに多くの人が来るのだ>
<なぜ、俺たちと同じことを考えて、三が日を避けて今日来るのだ>
<邪魔くさいなぁ、来るなよ!>
を如実に表すと共に、

大群衆の阿呆面の行列を、いっちぬ〜けたぁっ!して
優越感に浸り、その阿呆面を一瞥して見下す象徴的なシーン。

蔑むような眼差しや、良し!

そもそも、言ってしまうが、
<よゐこ>ぶっている輩に限って
うまいこと割り込んだり、密かに押したりして先に行こうとするわけだ。

それを咎められた際に、"知らん顔"するために誰もが<よゐこ>を演じている。

本当の〜性格の悪い〜顔を、隠して。

そうやって輩はまた1シーズンを送るのだ。

ダモシはそうはしないし、させないぞ、と。




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2011年01月08日

切る人によって…



皆様、どのような新年を迎えられましたでしょうか。

1.5の、一般ゼネラルな仕事初めで、
正月ボケから目覚めたか否か。
ダモシも一般に見習って1.5から仕事初め。

この週末は、ダモシ正規軍来訪による新年会と、
三年目になる恒例の川崎大師への初詣。
三連休が明ければ、ウルトラの父の命日でもある
旧<成人の日>(現・移動祝祭日)がやってきて、
それが過ぎてから新しい年の本質的なスタートともなるのか。

学校はおおむね来週の三連休明けからスタートのようだが、
アントニオは今宵からスタート。
喜んで行き、喜んで帰ってきた。

ワイフ&アントニオは1.5に戻ってきた。
ダモシがオフィシャル事案から戻ってくると、
アントニオがバスタイムを共にすべく待っていた。

何だかんだ言って、己がダディが好きで、
数日逢えなかった分、懐き、甘えているわけだ。
それがまた当然ながら、"カワイイ"の享受になる。

一つには、これもまた親子の便益でもある。


*****


1.5のオフィシャル事案初めから
今年の読書もスタートしたわけだが、
まず読んでいるのが、これだ。

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故・阿久悠の著作。

この人は武骨で、
猪木もそうだが、同じことを書いていた。

要するに<怒り>である。
世の中やその他もろもろに対する<怒り>というエナジー。
これがなければダメだ、というイズムはまた、
ダモシ・イズムとも合致する。

"腹が立つ"と"怒る(怒り)"の相違など、
さすがの言葉の魔術師だけに上手に書いている。

この本に関しては、コンテンツ<ダモシの本棚>で別途
フィーチャーするほどの内容だからここでは触れぬが、
この本を読んでいることもあって、

ここ数日、聴いている音楽も<昭和>だ。

沢田研二<時の過ぎゆくままに>
都はるみ<北の宿から>
<ウルトラマンタロウ>
ピンクレディーの各曲
岩崎宏美<思秋期>
八代亜紀<舟唄>
石川さゆり<津軽海峡冬景色>

などなど。

これらを改めて聴き、阿久悠氏の本を読むと、
まさに本のタイトルのように
<歌もよう人もよう>をより感じられ、
また同時に<時代>というものをも掘り起こしたり
回顧することで得られる楽しみも生まれる。

阿久悠氏が書いた歌を聴いていると、
つくづく紅白などで八代亜紀がステージに立ち
<舟唄>を唄うシーンを思慕する。

翻って、もう終わったことだが、昨年の紅白を思うにつけ、
やはりいくらなんでもAAAだのNYCだのではないよなぁ…
と合点がいかなくなってくるのである。

要するに、一つには、世間に対する苛立ちをどこに向けるか。
そこで腹を立てるか、怒るかによって大きな違いが生まれる。
腹を立ててるだけでは何も生まれない。

怒りこそが、エナジーへと転嫁する。
そしてエナジーがやがて、その怒りの対象を凌駕する"何か"を
己が手中に収めることになる。

ニッポンに対するいい知れぬ<怒り>。
既に三十路に入ったにも関わらず
まるで未だ青春時代かのような
猛るような哮るような、もうどうにも我慢ならない
ニッポンに対する
<こんなことではダメだぞぉっ!>という怒り。

このエナジーが、一つには当時、
ダモシをして三十路に入ってから『ゼロにして』
異国へチャレンジするというマインドの根幹にあったわけだ。

それは対富士も同様。
今ここに、そして常に。ダモシの中にあるいい知れぬ<怒り>。
それは不惑に入ってミドルに差し掛かる頃合いの今でもなお
未だ青春時代かのような
やはりまた猛るような哮るような、
今はちょっぴり我慢がきくようにはなったものの
でも、もうそれこそほとほと我慢ならないぞ?
というニッポンに対する、ニッポンとニッポン人に対する<怒り>。

これをぶつけている/ぶつける、一つの対象としての富士があるわけだ。

<ふざけるなよぉっ!>

<いったい、なんなんだぁっ!>

という、富士登拝中に金剛杖もろとも叩きつける
これ以上ないという腹の底からの大声は、
冨士に言っているようでいて、
己自身に、そして怒りの対象に言っているわけである。


まあ、いい。

いずれにせよAnyway, <怒り>を失ってはいけない。

そういうことである。

というよりも、ダモシは普通に常に怒っている上、
性格的にこれを失うことはあり得ないだろう。
失う時が来るとすれば、死ぬ時か。

否、死ぬ時もまた、納得なんぞ到底できず、
怒っているやも知れぬ。


*****


今宵、<?>なことがあった。

相手にとっては"普通のこと"で、
ダモシとワイフにとっては"異常なこと"である。

豚トロが昨年後半来、好物になっている。
もともと嫌いではないが、
店で食す以外=自宅で食す場合、
<焼き肉>や<すき焼き><しゃぶしゃぶ>は難しい。

だが、しょっちゅう、それを食す。

根源的に肉食だから致し方ないのだが、
頻繁に自宅で焼き肉やすき焼き、しゃぶしゃぶをする。

この場合、肉によって、その場が楽しくなるか否かが決まる。

渡米以前のニッポン時代のある時、
ワイフと二人で当時住んでいたエリアの
スーパーマーケットで肉を買い、自宅で焼き肉をしたのだが、
ブチ切れてそのパックをまだ肉が残っている状態で投げつけて
<二度とスーパーで肉は買わんぞぉっ!>と叫んだことがある。

以来、ダモシもワイフも、スーパーマーケットなどで
肉を買う場合は慎重になる。

単に高いお金を出して良い肉を買えば済むような
お金持ちではないから、
そこでは知恵や工夫が必要になる。

廉価な肉でも見た感じで判別できるようになってきた。

そして豚トロであるが、
<こんなに美味な豚トロをこの価格で出すスーパーマーケットは、
 まさに初めて出逢った>といえる店を昨年見つけたのだ。

他の肉も美味にして、廉価。

そのスーパーマーケットには、肉を買うためだけに行く。

だが、年末の豚トロが
ぱっと見て分かるほど様子が違っていた。
<おかしいな>と分かったのだが
この店の実績から買って帰った。

すべて食したが、<ほら、何かが違うでしょ>とダモシは
いささかの不満を表明していた。

そして今宵。

週末の新年会のしゃぶしゃぶ用の肉を買うついでに
豚トロも買おうということになったのだが、
年末に売っていたそれとポスチャーが同じものが並んでいた。

<ダメだな、こりゃ。言わんと>とダモシは
肉売場の中の調理場へ声がけした。

そして、述べた。

<豚トロね。これ、違うでしょう?>

<はっ!?>

<否。年末もそうだったが、年末前の豚トロは素晴しかった。
 ひと目見て分かりますが、
 これ、そもそも厚すぎるでしょう。色も違う。
 そして致命的なのは、切り方が雑な点。乱暴でしょう、この切り方。
 肉、変えましたか?>

<いえ、いつもと同じ肉ですが…>

<否,否。ぱっとひと目見て分かるでしょう。
 厚すぎるわけですよ、これ。
 色も薄い。もっとピンクだったでしょう、前は。
 前はちゃんと"トロ"だったもの>

という押し問答が続いた後、店員が言った。

<切る人によって違いますので…>。

これを平然と、悪びれずに言うのである。
そしてダモシの言っていることの本質的な意味を理解していない。

切る人によって違う…。
それで良いのか?
瞬時に、ダモシ・イズムとの相違から違和感を覚えた。

むろんダモシも飲食店でのアルバイト経験はある。
大学生時代、長きに渡り調理のアルバイトをしていた。
しかも大所帯のアルバイト学生軍団の中で
厨房のリーダーまで務めた。

調理する人によってメニューごとボリュームや
厚みや切り方、味が違うということはあり得ない。

それは牛丼店もラーメン店も同じだろう。
クリーニング店も、理髪店も同様だろう。

一つの同じ傘(店)の下でありながらも、
肉を切る人によって味も厚みも異なることが
"普通"とは決して思えないのである。

且つ、最大のポイントだが、
これは言ってはならない台詞ではないか、プロならば。

そう強烈に感じてしまったのである。

明らかに味も柔らかさも落ちたそれを提供することで
ヨシとしている上に、それを知らず、
ただ単に<切る人によって違う>で済ませる。

これは、いただけない。

ダモシは何もその人に対して怒るのではなく、
そういった<甘ったれた考え方>に怒りを覚えたのである。

且つ、時間をスペンドしてここに来ているのは、
その肉を買うためだ。
にも関わらず満足のいくそれを手にすることが出来ない
となれば、完全に<無駄な時間のスペンド>となる。

それに対する<怒り>も当然、湧き出る。

<切る人によって違っては、ダメだな…>
とトーンを落として、哀しげに述べたダモシ。

黙っている店員。

無駄な時間のスペンドを避けたいダモシは注文した。

<では、いい。今から切ってください。
 私はこの店の年末より前の時点での美味な豚トロが欲しいのだ。
 肉は違うかどうか分からない。
 ただただ、とにかくこれでは厚すぎるし乱雑な切り方だ。
 薄く、とにもかくにも薄く、そして丁寧に薄く、
 まさにこれはトロでは?と思える色をください>。

数分後、店員はやってきて差し出した。

<これでよろしいでしょうか>。

大増量で、きちんと薄く、そして丁寧に。
これを満たしていたから、
<ありがとうございました>と述べてそれを手にレジへ向かった。

せめて中トロ以上。
中トロと見紛うばかりの豚トロだったのだ。
それがこの店の豚トロの良さだったのだ。

失われていた年末と今宵。

ダモシが言わんとしていた本質的な部分=<丁寧に>

を店員は果たして理解しただろうか。

次回その店を訪れて豚トロがまた
よろしくないポスチャーだった場合は、
詳細な説明と教示を施さなければならん

と思っているところであるが、

とまれ無事に今宵、
大増量された豚トロを美味しく頂戴したわけである。
明日はしゃぶしゃぶ。

肉食家族、といえようか。


*****


ダモシの長い付き合いになるクリエイターの仲間が
アントニオのイラストを描いてくれた。

キャラクターとしてのダモシのイラストを手がけてくれている氏だ。

アントニオの空手用のオリジナルTシャツを、
このイラストを左胸に施して早々に作り
次回の大会に臨む際に着用したいところである。

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氏は昔からそうだが、
それこそ先の店員の話ではないが、
オフィシャル事案でも共に関わる/依頼するケースも
これまでも多々あるのだが、
ダモシの言わんとすることや求める部分を鋭く察知してくれる。

本質的な部分を理解してくれる、ダモシの良き理解者の一人である。

今回もダモシの依頼に、
ダモシはモデルとなる写真を送っただけであったが、
<アメリカのアニメのキャラクター>風を
自ら狙ってくれた。

それこそダモシが言わなかったが、求めていたものであった。

さすがですね、と。

あくまでもアメリカン・コミックではなく、
<アメリカのアニメ>の<キャラクター>的なテイスト。

これこそ求めていたものであり、
見事に氏の感性がそこに合致してくれたということである。

オフィシャル事案で、
<どうして分からんかなぁ…>だの
<言ってることの本質を、本当に理解しているのか?>
<何度も何度も説明しているのだが…>
と思えることが頻繁なだけに、

気心知れた仲間というものの有り難みを実感するわけである。

アントニオのイラストは、ダモシと共に、
当ダモログの右バーの<Fighting Event>コーナーの上部にも掲載した。


*****


最後に、今宵また本を買ってしまった。

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まずは阿久悠氏の本を読み終えなければ。

今宵も、阿久悠氏が書いた歌を耳にあてながら
眠るとしやふ。



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2011年01月04日

メモラビリア



今宵、じぶん時間の二日目。
青葉台を散歩した。

ディナーは一人で、
ケーブルでプロレスリングNOAHを観ながら。

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カルボナーラにカラマリに、
ビーフシチューのパンなどをチリ・ワインで。

何やかやと、結局,読書もできず、
細々した掃除ではなくて整理や作り物をしていたわけだ。

こんなような整理整頓と作り物を。

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アントニオや己の、こういった作り物が好きで、
ポスターやチラシなどもオリジナルで作っては整理やコレクトしているわけだ。

ヒストリーやアイコン、メモリーズは
そのようにきちんと残すという所作は米特有のものである。

米はそういった部分が秀でていて、
当地在住時にはよくそういったヒストリカルなアイテムを買ったものだ。
ジョン・F・ケネディやマーティン・ルーサー・キング牧師から
モハメド・アリ、ジョー・ディマジオまで。

言わば、それらは<メモラビリア>というアイテムである。

ダモシ自身、そしてアントニオの、
それぞれメモラビリアを自前で制作して壁に飾る。
これが楽しくもあり、嬉しいのである。

コドモは確かにこういった所作とエクスポージャーが、
モチベーションの堅守と
モメンタム助長につながるのもまた証明済みである。

さて今宵制作したメモラビリアは、富士山。

先の写真に分かるように、
<富士山登頂記録>という紙が二枚、ある。

一昨年と昨年のものである。
写真もそれぞれから選んで三枚だけ合体させた。

現地で購入した表彰状型の<登山証明書>や
富士山型の木で出来た<日本一宣言証明書>、
はたまた富士山フォルムのポストカードである
<ご当地フォルムカード/富士山>は購入し、
それぞれ整理して壁に飾ってあるが、

己自身で制作したものとしては、対富士山に関しては
これが初めてのものであり、
ダモシのデスクの目の前の壁にそれは展示した。



*****


10PM。

急に、無性にヨーグルトを食したくなり、
寒い中、コンビニエンスストアへ歩いた。

往路は登り坂、復路は下り坂が
拙宅とコンビニエンスストアのわずか一分半の間の道だ。

チリ・ワインも良く、
すこしだけほろ酔いの身には寒風が心地よい。

下り坂をおりてくる途中で、不意に沸いて出た。

<富士登拝2011をやろう>

と。

今宵、デイタイムに三が日で来た年賀状も
改めて目を通していたのだが、
オフィシャル事案の関係者で昨年登った人の中から二名が
手書きで<今年もまた富士山に行きましょう>と書いていた。

いささか驚いた。

彼らは普通に、今年も行く気でいる。

<そうか…>とダモシは思った。

そして夜。その下り坂だ。

突然、感じたのだ。

<よし、行こう!>と。

ここに、

◆正式名称<富士登拝-2011>、

◆タイトル・ワード
<今年もまた、一緒に富士へ行こうじゃないか>

◆キャッチ&リード・コピー
<上を向いて歩こうなどと甘っちょろいキレイごとへの
 強烈なるアンチテーゼがここに,在る。
 上をも下をも"向かざるを得なくなる"数時間がここに、在る>

を告知するところである。

ポスターも出来た。

これだ。

fujitohai2011.jpg

今年もまた、一緒に富士へ行こうじゃないか。

初めての人も、一緒に富士へ
<行かないか?>ではなく、

<行こうじゃないか!>。

参戦は以下にて、ダモシ宛でメールにて受付。

fujitohai2011@mail.goo.ne.jp

登山口は未定。時期は通例の<梅雨明け直後>(七月中旬)。


<俺たちまだまだ、大欅の向こう>である。

そして、三たび、富士と対峙である。






posted by damoshi at 00:56| R-246 ダイアリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月03日

散歩初め


今朝からワイフ&アントニオが那須行き。
ニッポン復帰以来恒例の、
三度目の正月じぶん時間である。

そして"嫌い"で、相容れないエリアである川崎。

これも不思議なことに復帰以来の正月の恒例行事の場
となっている。

初詣は、09年も昨年も川崎大師へ。
98年以前のニッポン時代ですら一度も詣でたことがない場所へ、
しかも"嫌い"なエリアへ行く恒例となっている不思議。

今年もワイフ&アントニオが帰京後、共に往く。

川崎競馬もまた、
正月じぶん時間でのダモシの昨年からの恒例だ。

1.2といえば、ダモシじぶん時間初めであり、散歩初めである。
といってもたったのここ三年の恒例だが。

一昨年は本郷の樋口一葉ゆかりの地を歩き、
昨年は日暮里の富士見坂から川崎競馬へ。
正月の川崎競馬の、何となく"許容出来る風情"が気に入り、
通常は「金杯」から始める競馬初めを
川崎競馬へと恒例化した。

今宵、また行った。

8AM台に出発するワイフ&アントニオと共に出かけ、
溝の口で、これまた"嫌い"なJRタテ・ラインの
ドン臭い筆頭格の南武線に揺られて20分で川崎へ。

今朝もはよから川崎は、ふだんの数倍の人出。

まさに、ほとほと、リアルに
首都圏から正月、人が減ることはなくなった。

逆説的だが、それを思い切り嫌うダモシだが、
そういう場に出ていく自体、おかしな話で
〜年末のららぽーと港北しかり〜あるが、

それはまた逆にダモシが本質的な天の邪鬼的人間で、
そういう場にあえて行って
そういう人々を斜に構えて眺めて嘲笑したりするのを
また慣しとしているとも考えられる。

だが、実質的には皆、よゐこぶったとしても
同じように感じている者は多数いるはずで、
現実に今朝もJR川崎駅の改札を出た途端、
隣を歩いていたおばさんと娘の母娘タッグがこう言った。

<まったく何よこの人混みは!>

<皆、なんでこんなに朝から出かけるのかね!>

と吐き捨てるように。

さよう。

さふ感じるでしょう?
言ってしまえば、<邪魔だよ>と。<帰ってろよ、田舎に>と。
実際、さふ感じている首都圏ネイティヴは
ダモシから言わせれば圧倒的過半数ではないか、と。

道路も、そう。
平然と、あるいは嬉々として、渋滞にハマるのをヨシとする人は
いたならば、それは偽善者である、と。

己がハマらない or はじめから避けているダモシのような人は、
今宵も高速道路の大渋滞の報道を見て笑うのだ。

<よし!>と。

<苦しめ>と。

はい、東名渋滞、例の大和トンネル45km、いっちょう!

と。


*****


川崎競馬。

明らかに昨年と同日/同開催(開催二日目)に関わらず、
目算で昨年の三倍は観客がいた。

言ってしまえば満員御礼だったのである。
これにも驚いたのだが、
ここに来るのは好意的なマインドからである。

昨年、好意を覚えたから恒例になっているのである。

何が、か。

そこにいる人々が浮かれていないことが、である。

高速道路の大渋滞にハマるような行動をしていない。
百貨店などの福袋に群がり大行列をなすような行動をしていない。

正月から、希望という名のハシャギぶりは皆無な
どこか暗い表情で無料バスに乗り込む人々。
その肩は寂しげに下がっている。

だが、彼らはお金がないわけではない。
基本的にお金がなければ競馬は出来ない。
競馬場へ行くための交通費、入場券代、食事代、ビール代、
競馬新聞代、そして馬券購入代。

お金がなくては、競馬は出来ない。
誰もが、ここで酒や焼酎やビールを朝から飲んで
朝から焼き鳥だおでんだ焼きそばだと食し、
500円と、ある意味で世界一高価な"紙"ともいえる
薄い競馬新聞を眺めて、そこにペンを走らせる。

どうせ当たるわけもない馬券のために。

そして彼らは叫ぶのだ。

6番の馬はスタートから好位で、
それは掲示板にも途中経過で出ているのにも関わらず
<おいっ!6番はどうしたっ!なにをしてるのだっ!6番!>。

たまらずダモシは声がけする。<6番いるよ?二番手だよ>。
おじさん、悪びれず、
<おっ、6番いたっ!>。

他にもおじさん。
ゴール前の直線,<5番!5番!5番!5番!>と叫び続け、
ゴール直前、<5番!5番!5番!バカッ!>と吐き捨てる。
ものすごい台詞の流れだ。

太ったおばさん=ファット・レディも叫ぶ。
<逃げ切れねえんだからぁっ!アホゥッ!>。

<川崎の騎手だから、アタイ勝つと思ったのにぃっ!
 もうバカたれっ!>。

まあまあ、罵詈雑言の嵐である。

相対的に概ね外れたようだ。
快哉は、一つも聞かなかった。

中には、器用にも左手で競馬新聞を持ち、
その残った指でおでんのお椀をつかみながら、
右手でペンと箸を両方持って、
<ながら予想>をしていたおじさんは、

ダモシの注文通り、おでんを落下させた。

<あっ?>とおじさんが呟くや否や、ベチャッ!と
鈍いサウンドと、飛沫を立てて、おでんは粉々になった。
もちろん同じく競馬新聞も落下して、
おでんによってそれは濡らされた。

己に腹を立てたかおじさんは、
転落して地面に佇んでいたコンニャクを
力いっぱい蹴ったが、思い切りダフった。

おばさんは連れのおじさんに言った。
<ユキチャン引退だってさ、アンタ。ユキチャン、引退よっ!>。

若いへんてこりんな、ブ男とブ〇のアベックの、
その女の方は、場違いなブーツと
オールモースト下着丸見えのミニスカで闊歩。

心の中はおそらく
<川崎競馬場くんだりなら、アタシに皆の目が集まるわ>。

でもその脚は到底、美脚といえず、痩せ過ぎの
ただの棒だった。

ダモシにぶつかった165cmくらいの小さなおじさんは
酔っぱらっていたのか、
威勢良くも<何だこの野郎>と小さな声で呟いたが、
ダモシが優しい顔でその目を見据えると
さっと踵を返して予想屋の群れの中に紛れ込んでいった。

競馬場を後にして無料バスで川崎駅に到着すると
我先にと、急ぐ必要もないだろうよ、アナタどうせヒマでしょ風情
なのに、競走のように降車を急ぐ人々。

最後にダモシが降車しようとすると、
同じタイミングでおばさん一歩手前のレディがいた。
さすがダモシは欧米的にいつものごとく
<ゴー・アヘッド>とやると、

こんな川崎くんだりで、
そんなことされたこたぁないわアタイとばかりに
おばさん一歩手前の女はポッと顔を赤らめて
礼を述べて降車すると、
ダモシが降車するのを待って
ダモシの顔を見て話しかけそうになっていたが、

ブ〇だったので、ダモシは無視してそそくさと立ち去った

とさ。


競馬は四戦二勝。
ハナから儲けようなどとはコレッポッチも思っていない。

昼の焼きそばと酒代が出た程度か。

否、帰路に本を買ったから、交通費も入れたら、赤か。

まあ、いい。

嘘くさい<希望>などという、
地球上でもしかしたら
最も胡散臭いものが皆無な、川崎競馬。

こりゃあ、いいぞ、と。

<本質的だな>とダモシは一人、南武線に乗り、座る。

溝の口からの20分、
軽く眠るかと目を閉じる。
買った<宮本武蔵>関連の本を読もうと思ったが、
不意に睡魔が襲ったからだ。

次に気づいて目を開けたら、府中本町すら過ぎていた。

多摩川を二度越してしまった。

東京から新幹線に乗り、静岡で下りるはずが、
目覚めたら岐阜羽島だった。

というくらいの距離感だ。

なにせ、川崎〜溝の口間の駅数と所要時間(20分)を
遥かに超えてその倍、行き過ごしてしまったのだ。

<やれやれ>と一人ごちたが、
不思議に、あの、おでんを落下させたおじさんのように
己に対する怒りが沸いてこず、

<はぁ眠いなぁ>とボゥッとしていたら
折り返しの電車が来て、また座れた。

だが、また睡魔が襲ってきて、気づいたら
川崎の二つ前の駅だったという有様にはもはや
笑うしかない、と。

混むと分かっていて、
そのタイミングの時節に高速道路に乗って
渋滞の渦中にいる面々というものは、

ダモシから言わせれば、
<希望>という胡散臭い存在に寄りかかって生きていると
断罪するわけである。

それに寄りかからなければ、
本質的な<希望>すなわち、

<希望>などという甘ったれたものではなく
希望や夢というものも
己がパワーで引き寄せ、実現さすものよ
というイデオロギー

を持ち得ない人々といえる。

いわば圧倒的多数決の論理に、己も渦中に入らなければ
安心感が得られない。

そこにもはや、致命的な弱さがある、と。

サバンナやアマゾンで狩猟したりすることは
決して出来ない生き方である。

あえて<希望>と言っているが、
そういった胡散臭く、夢の持つ曖昧模糊さ同様の
存在の限りなく希薄なものとはハナから無縁の

そんな空間=一つには正月の川崎競馬

が心地よく感じるのは、当たり前なのだ,と。

さふ気づいた今宵であった。


以下、川崎競馬から。


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危うく
<希望溢れる明るい空間>に劣化してしまいかねない
今宵の川崎競馬。大盛況。なんじゃ、こりゃ、と。

だが、皆、全然ハシャいでいないから、素晴しいのだ。

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スタートで、躓いたり、出遅れて喘いだり、
思い切り斜行したり、飛び上がったり…。

まあまあこのローカル競馬。馬たちも愉快である。


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男は根本的にダメな生き物で、くだらない性である。

たかが競馬に、これほど予想にも夢中になるとはなにごとか。
そもそもお前、コドモの頃、これだけ一生懸命勉強したか?と。

はっきり言って、これだけ予想に勤しんでも当たらない。
だが、それで良いのだ。
笑いは漏れるが、それは好意的な笑いであり、
こういう人をダモシは否定しない。むしろ好意的だ。

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このレディもまた、味があった。
ただ単にヤングレディで、
それこそ<希望>を意図的に振りまいているような女でなかったのが、
なによりである。

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競馬をやらない女からすれば、
<これで500円?バカじゃないの?>となるだろう競馬新聞。
薄いったりゃ、ありゃしない。
ダモシも<しっかし毎回これ、高いわなぁ>と感じるのだが、
致し方ない。

コレ込み、で考えなくてはならないのである。

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プレゼントのカレンダー。
これも、くだらないが、ささやかな、
どのみち貰えるならば貰える方が気分は良いには違いないのだ。

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どう見ても<こりゃ来ないわ>と思える馬でも、
そのローカルらしさ満載の名前の馬の馬券を買う。
100円なら文句ないだろうよ、と。

これもこれで、良いのだ。

これが当たるかも?という
くだらない希望などは一切、抱かない。
そういうものではないのだ。

010211h.jpg

010211g.jpg

たまプラーザも、増量大群の人々。
書店なんぞは、レジ行列で50人。

言いたい。

<キミたちふだんからそんなに本、好きだっけ?>と。

正月でやることなくてヒマだから
たまプラーザでも行くか、本屋に行くか、という世界で来て、
そしてヒマだから家で本でも読むか
ふだんは(たいして忙しくもないが、忙しい忙しいとフリだけ立派な)
仕事で読む時間がないから、というレベルで本を買うに過ぎず、

ここでの行列もまた、<参加>することに意義があって、
そんな自分に納得を得ているに過ぎないだろう。

それで、本当に楽しいか?

010211i.jpg

ダモシはそんな行列に並ぶ気はさらさらないので、
レジの行列でなんぞ並ぶ必要のない本屋で本を買う。


とまあ、なんだかんだ、であるが、

最後に、<希望>とはなんぞや、と。

本質的なそれを。


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ケイバタイムス用の賀状である。

今宵の川崎で撮った写真を用いた。

心は、
<俺たちまだまだ 大欅の向こう>。

分かるでしょうか?

これが<希望>というヤツである。本質的な。
そしてここから先の行動が伴うものが
<闘い>であり、<夢>になる。

ニューヨークや大阪・新世界や川崎競馬。
これらのアトモスフィアがダモシ的に相容れるものなのはなぜか。

答えは簡単だ。

中途半端な明るさの演出や、
皆で渡れば怖くない思考や、<希望>という胡散臭さが皆無だから、だ。

もっとそれらには、本質的な闘いや業が横たわっているからだ。

皆と一緒には渡らんよ、という強烈な自我も、
そこにはあるからだ。

そして"ハッピーハッピー"を装うことで
己を紛らわそうとする必要性が皆無だからだ。

今年は"年賀状"という括りをやめた。
もう今後はそうするだろう。

<新年>だの<おめでとう>だのというワードは一切、
入れていない。

なぜならば、
もはや我々世代になると年齢的に
その周りの人含めてハッピーハッピーということが
あり得なくなっているからだ。

年が明けておめでたい?ということは
おかしいことである
ということに気づいたのである。

年が明ける云々に関係なく、
すべての人生は予告編であり、
すべてにおいてフィフティフィフティであり、
すべてにおいて悪いこともあれば良いこともあるのだ。

<希望>や<夢>という明るい存在は、すべて己自身の中にある、と。

決してそれは<年>が明けて云々ではない。


そして、
ダモシ世代とその周辺世代でいえば、

<俺たちまだまだ 大欅の向こう>なのである。

競馬を知る人しか分からないかもしれないから、
ダモシ賀状(<不易流行>)に用いずに、
ケイバタイムスの方に用いた台詞であるが、

基本的なイデオロギーは、同じである。




posted by damoshi at 02:46| R-246 ダイアリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月01日

大晦日レヴュー



2011年は、<宇宙の旅>だった。
その2011年になった。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


*****


寿司に年越し蕎麦に、チリ・ワインを肴に、否、
紅白とDynamite!を肴に美味頬張り大晦日の夜を拙宅で過ごした。

"ニッポン復帰"後、三度目の年越し。

まずは、俯瞰だが、
紅白も格闘技(Dynamite!)もこの三年では
もっとも面白くなかったという結論になる。

そもそも紅白に関しては、
師走最後の一週間で口癖のように
<今年の紅白は面白くないなぁ>とワイフ&アントニオに語っていた。

どう考えればあのようなメンバー構成と歌唱曲選定になるのか。
さっぱり理解ができない。

SMAPの大トリは既にとっくのとうに辟易なのだが、
ドリカムというのは、いかがなものか。

"反動"ともいえる、ドリカムの近年の異様なテンション。
ついていけない。アレについていけるか?
アレに一緒にノレるか?ハシャげるか?

おかしな話である。教示が一つもない。
ドリカムのパフォーマンスには。

そもそも紅白における安直な所作の筆頭である
<メドレー>だの
<紅白スペシャルver.>だのには頭に来ているのだが、

なぜドリカムはあそこまでバカ騒ぎする必要があるのか、と。

歌の凄みで引きつけられずに、
乱痴気騒ぎともいえる浮かれバカ騒ぎで誤摩化す作法は
アグリーこの上ない。

石川遼は何のために存在したのか?
北大路欣也は少々ボケが入ってきたか?
古手川祐子はなぜあんなに号泣する必要が?
aikoはなぜ毎回出てくるし、列でも目立つ位置にいるのだ?
その他、諸々、不思議が多すぎる。

好意的な不思議なら良いのだが、
いずれもが<?>という部分にその必要性を感じないわけだから
厄介になる。

紅白の後の<ゆく年くる年>の演出を観ても分かるように
NHKはそもそも演出が上手なのだが
なぜか毎度<紅白>になると惨憺たる演出になるのは何故なのか。

最も良いパートになる可能性を秘めていた
<松下奈緒のピアノ&いきものがかりの"ありがとう">は
大失敗である。

<アホゥ!>とダモシはブラウン管に叱った。

途中まで、松下のピアノとその演出が良く、
ダモシはその時点で
<よし。このまま静かにピアノが終わったら、
 その流れで間髪入れずに、いきものがかりの歌に入れ>と
指示を出していた。

が、NHKはドン臭く、せっかくの松下のピアノでいったん、止めてしまった。
出てきたのはステージ上の古手川と大杉蓮。
ピアノ演奏を終えた松下もすぐ隣にやってきた。
そして、ドン臭く、会話を始めてしまい、
前口上にすらなっていない解説と紹介を述べてから、
いきものがかりの歌に、普通に入っていってしまった。

どっちらけ、である。

松下のピアノの静と、いきものがかりの"ありがとう"の出だしの
力強いヴォーカルの動の、
それこそ一連の途切れのない流れが求められるべきだった。

<台無しだな。下手くそが!>とブラウン管に言わざるを得なかった。

もうね、和田だの何だののメドレーは不要なのよ、と。
桑田?なによ、と。

言ってしまえば、クミコにしてもHYにしても植村にしても
<ズルい>のですよ、と。

題材がアレでは、ズルいですよ、やはり、と。

申し訳ないが、
それこそ植村の九分だなんだのは
言ってしまえば
<ホテル・カリフォルニア>なんぞ数十倍良いですよ,と。

あまりにも意図がミエミエの、ああいった題材を用いるものは
小説にせよ音楽にせよダモシは大嫌いである。
<感動するでしょ?>という強要が感じられるのだ。

おばあちゃんだの家族だの病気だのという
お涙頂戴モノは、ダモシからすれば安直である、と。
音楽も、ある意味で芸術の一方で"興行"や"セールス"&"営業的所作"が
根底にはある。絶対にある。

売るために、という部分を考えれば、
より売れるネタを用いるのは常套手段である。
だから嫌いなのである。

リアルな部分で聞かせる、そして芸術の域という意味でも
大トリは石川さゆりの<天城越え>で良いわけで、
それこそ白は北島三郎で良いのである。

すべてが作為ミエミエの予定調和で、
ぜっんぜんっ面白くない!と。

さふ2010年の紅白は断罪するところである。

マズいぞ?こういうことでは、と。


それは格闘技イベントも同様だ。
アントニオ猪木も、もはや"あんなレベルの"イベントに
来る必要はない。

ヒドいね、と。

所にしてもボクサー上がりの、ただの"ケンカみたいな"相手に
フィニッシュホールドを何度も何度も決められず、
決め手の弱さだけを露呈し、

石井彗にしても、柔道家の限界なのか、
やはり打撃が出来ないから
抱っこして寝転がしてということしか出来ない。

もはや"総合"は過渡期というか、終焉ではなかろうか。

まったくもって総合が内包する異種格闘技戦的な
<噛み合わない>ポスチャー連発で、
その<噛み合わない>にしても天下のアントニオ猪木は
観客を掌の上で転がして熱狂させたが、
もはや現代の格闘競技者の中には
そういう存在は皆無だ。

はっきり言って、寝転がって抱き合っている展開はもう、
役目を終えた。

まったく、面白くも何ともない。

K-1からマトモなファイトを見せてくれると期待した
京太郎だったが、<なにをしとるのか…>という内容。

<やり合うな>と何度もブラウン管に指示を出し、
<だからインローだって。インローやってけば勝てるから>
とこれもまた何度も言うが、

悪い癖か、パンチでやり合って敗北。
結果はもとより内容もまったくなっていない。
先のK-1グランプリでのシュルト戦同様に、
<なぜ左インローから崩していかないのか>という
戦略的な部分の問題があるのでは?
と思える内容で連敗。

京太郎は、これはちょっと次戦は、
"ちゃんとせんと"マズいぞ?と思えてきた。

それにしてもいずれの選手も、
なんとなく疲労感が滲み出ているのが気がかりだ。

ついでに引退した魔裟斗の、
技術的及び戦術的な部分への断定的なコメントが
妙にハナについた点も気になった。

Dynamite!として、総花的且つ総合系的には、
もうそろそろ厳しいか、と率直に感じるイベントであった。

よっぽど中井りんの方が面白いだろう、と。



*****


紅白にしてもDynamite!にしても、
いかにも作為的で予定調和な世界観が露呈して
ここ数年では最悪ともいえる中、

<ゆく年くる年>を迎えた。

既にアントニオは11PMを前にしてギブアップでご就寝。
ワイフと二人で観たわけだが、
毎回この<ゆく年くる年>は構成が上手い。

知恩院をメインに持ってきて、
サブで東京スカイツリーという構成は見事。

東大寺の南大門を凌ぐ国内最大の三門からスタートする
中継の、見事なツカミ。

2010年最後の鐘をつく
国内最大級の知恩院の大鐘楼のダイナミズムと、
それがつかれた直後に画面に現れる<0:00>の文字。

この演出と構成の妙をもってすれば、
なぜ紅白がああなるのか、という不納得も
普通に生まれるわけである。

絡みが多すぎて、猪木アリ状態に陥っている。
それが紅白と格闘技イベントの現状ではないのか?

それならば、いっそのこと一度、スクラップするのも手だ。
そうした上で、ビルドすれば良いだけの話である。


一部、恒例になっていた大晦日の、
ダモシx後輩氏とのLIVEやりとりから抜粋。
(ダモシ:D/後輩氏:S)。

S:
紅白いまいち。
いまのところ西野カナが太ったってのが一番盛り上がったっす。

D:
かなりキツいね、紅白。
このままでは<天城越え>の一本かぶりでは。
桑田ではちょっとね…。
Dynamiteもキツいわ…。
ちょっとこう格闘技の総合の選手たちの品の無さがダメだな。
総合の若いのが"倖田來未的"というかレベルが低い。

S:
久々両親と見てるんですが、
まあ"何を歌ってるのか聞き取れない"のオンパレード(笑)
親父が、aikoが終わった後に
<上手いんだか下手なんだかわからん>と(爆)
するどいなあ。

D:
桑田も何だかなぁ、という感じだしな。
<天城越え>くらいだろ、マトモだったのは。
石井もヒドいね、ありゃ。
結局、柔道系は華がないからダメだわな。
抱っこして寝かせてしか出来ないんだからさ。
面白くないなぁ、総合。もう総合はダメだな。

S:
石井は見ましたけど、
殴るのも極めるのも中途半端でしたなあ。
フジテレビの恐怖番組も中途半端だし、
全部が中途半端。

D:
所もそうよ。
ヤンキーみたいなボクサー上がりの腕を極めきれんでさ。
何度も何度も極めきれないわけだ。
石井もそう。総合はそろそろアウトだな。
猪木もつまらなそうだったなぁ。


コレ、今年の大晦日は、
NHKとTBSはもとよりだが
他局ももっと真剣にコンテンツを考えた方が良い。
さもなくば、とっくに終わっているテレビの役目は
完全に失われる。

ふだんから、再放送や焼き直しで誤摩化したり、
安直に芸能ネタで時間稼ぎしている等、
メディアとしての努力を完全に怠っている証拠である。

ダモシがプロデューサーなら、石井彗は二度と使わない。
石井はまったく華がなければ、
闘いという部分での魅せる要素が皆無だ。

そして紅白は絶対にああいった構成と演出にはしない。

なぜBS含めてふだんの音楽LIVE番組でやるように
きちんとした楽曲と歌、歌手へフォーカスを徹底的にあてた
パフォーマンス重視の演出をしないのか。

石川さゆりの<天城越え>にしても、
どう考えても
舞台上に大革、鼓、能管の奏者を配して
ナマでそれとコラボした演出にすべきだろう。
あの、まったく"舞"をしない舞は何だったのだろうか?

各歌手、唄う歌が間違っている。
西野カナにしても<君って>の方だろう。
平原綾香にしてもアレではないだろうし、
JUJUが出て来ないのはおかしいし、NYCって何よ、と。
言ってしまえば、AAAとかって何よ、と。
腹立たしい限りである。

ダメだ、こんなことをしていては、ニッポンよ。

NHKも、このていたらくで視聴料だなんのと、おかしいぞ?

と、不愉快な大晦日のコンテンツ視聴と相成った次第である。
2010年、怒り納めといえよう。

そして、2011年の不思議初めといえばもう、
<元気なシニアたち>である。

ストーブ列車内、亀戸天神境内、そして各地の初詣地。
そこにいるシニアの方々の
この時間にも関わらずの酒だ食だとハシャぐ姿の嵐。

<間違いなく、俺たちより元気だろ>。

<こんな寒い時に、遅い時間に出歩いてさ。
 それでも風邪ひとつ、ひかんのだろうな、ああ>。


ダモシはそう言わざるを得なかった、2011年不思議初めであった。



皆様におかれましては、よい三が日と新年をお迎えください。




posted by damoshi at 01:42| R-246 ダイアリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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