1969(昭和44年)1月19日、
東大・安田講堂、落城。
その前年の6月にも
東大の学生は安田講堂を占拠したが
排除されていた。
いわゆる"東大紛争"の
クライマックスともいえる闘いの舞台は、
<安田講堂>。
*****
・三億円事件(1968)
・安田講堂攻防戦(1969)
・よど号ハイジャック(1970)
・三島事件(1970)
・あさま山荘事件(1972)
とくれば、
60年代後半〜70年代序盤の
熱いニッポンが
いよいよ終わりを迎えて
シラケていく分水嶺に起こった
象徴的な事件であろう。
いずれもその生中継などの視聴率は
現代では考えられないほど
高い数値を記録している。
ダモシは既に生まれているが、
LIVE映像で
"何かたいへんなことが起こっているな"
と朧げに理解できたと
記憶に残っているのは
あさま山荘
から、である。
安田講堂攻防戦は、
ダモシが
二歳十ヶ月の時である。
まずは
youtubeから
事件と安田講堂の画像を。



後付けで
映像や写真で何度も目にすることになる
この攻防戦。
現代では
テレビの特集番組を待つまでもなく
youtubeで観たい時に観られるし
インターネットで画像も観られる。
映像と写真で見ていた<安田講堂>。
それは
高く大きいものであると
感じていた。
反代々木系が篭城した安田講堂の
最上部からの
投石、火炎瓶投下等の映像と写真からは、
それが
随分と高いものに映った。
落ちたら死ぬであろう
レベルの高さにはある、と。

安田講堂。
時代性か。
前述の同時代性ある事件群で
三島事件における
"三島バルコニー"とその建物
(自衛隊東部方面総監室)と
類似している。
赤門をくぐって東大構内へ。
真っすぐ進み左へ折れると
右手下には三四郎池。
突き当たりを右へ折れると
左向こうに一際
言いしれぬ時代のオーラを抱えた
建物が現れる。
それが、
実際の大きさよりも
大きく見せる
安田講堂。
最初にそれを目にする瞬間は
デジャ・ヴから発生する観念
=
大きい/高い
と比べて、
やや
<思ったほど大きくないな…>
<意外と小さいな…>
となる。
だがそれは
事前のデジャ・ヴにおける
<たいへんな事件/騒動>を
バックボーンとしているからであり、
それなしで
ニュートラルに見れば
大学の講堂としては
十二分に大きく高い。
且つ、
デジャ・ヴと共に介在している
<歴史の重み>
=
ヒストリカル性
があることで、
実際の大きさよりも
さらに大きく見せるオーラを持っている。
傷跡ともいえるその建物の外装、
東大全体がそうだが
建造物としてのハイカラ性、
そして
あの攻防戦での画像を見ていることで
刷り込まれている
<講堂前の喧噪>をイメージし得る
広場
などなどが
講堂の大きさと高さを
より助長する。
<三島バルコニー>も
<安田講堂>も
いずれも
あの時代の大事件建造物は、
<意外と低い>という感覚を
最初は与えるが、
次第に
時間を経るごとに
己がそこで
ヒストリカルな要素を解釈し
混ぜ合わせることで
<あぁ、激動の時代の証人だな…>
<それだけの存在感がある>
と納得するに至るわけである。



講堂建物の左手が、広場になっている。
安田講堂攻防戦は、落城まで二日掛かっている。
あさま山荘事件といい
解決までに
妙に時間をスペンドしている。
むろん
色々な都合は抱えながらも
警察側は当時もベストは尽くしたのであろう。
意外と小さい安田講堂が、
今宵ダモシが見て感じたように、
現場にいた機動隊にとっては
大きく難攻不落に見えたか。
攻め手がない。
攻略まで二日を要していることからも、
そう思えなくもない。
どうやら
実際に大きいようだ。
高さは40mという。
それなりに高い。
しかも
上がるには階段で
それも狭い、と。
その内部に入るには
講堂裏側の小さな入口から。
エントランスは小さく、
階段も狭い。
高さは40m。
そうなれば
この構造自体が
機動隊が攻略に時間を要した背景要因の
一つとして考えられるのかもしれない。
<30歳代で、
医師免許を持つドクターでも
助手の場合は無給>
などという
ドクターでありながらも
助手である限りは
サラリーをもらえないという
不可思議な決まりなど
当時の東大には
質すべき問題が多かったという。
当初は
東大紛争として
大学側との闘いが基軸だったはずだ。
それは
あの時代の学生運動に留まらず
一般ゼネラルも
初動段階では<運動する側>に
シンパシィを抱いていた局面もあったろう。
だが、
あさま山荘しかりだが、
ある一定レベルを超えてしまったことと
もはや
理解や共感の及ばないところまで
突き進んでしまった各種闘争は、
時代の空気感と
次第に相容れなくなってきたのか。
三島の主張と行動も同様。
東大紛争もやがて
代々木系vs.反代々木系など
派閥やグループ間の主導権争いに変化。
そうなると
ある意味で
<痴話喧嘩>の世界観になってくる。
あさま山荘のグループの
仲間内での殺害等もそうだが、
可能な限り
一般ゼネラルでも理解共鳴でき得る
ゼネラル・インタレストな主題と
闘いのポスチャーから
やがて
それらはすべて
<痴話喧嘩>へと劣化したのではないか、と。
他人の<痴話喧嘩>に肩入れすることは
人間の性として
それは不可能である。
且つ
そこに暴力や殺人、
無意味な時間的スペンドと
税金という金銭的スペンドが加わることで、
微かなシンパシィは
絶対的な嫌悪感へと変わってくる。
当時の三島を取り巻く環境も同様。
<そこまでいくと、
もう理解できませんよ…>
と目を背けたくなるわけである。
それが大衆の心理であろう。

試合時間は、36時間46分。
安田講堂は
冬で既に暗闇に包まれた5時45分、落城。
荒れ果て破壊された安田講堂と東大。
唯一その中で
狂うことなく壊れることなく
時を刻み続けていたのが、大時計。
ここで一句。

本郷の 杜が死した夕闇に
安田の時計 唯一狂はず
*****
大学紛争から<痴話喧嘩>へ化身し
その抗争は激化を辿る中、
代々木系と反代々木系の両陣営は
<三十八度線>を設定した。
図書館と三四郎池を分水嶺に、
赤門側を代々木系
正門側を反代々木系
それぞれの陣地にした、という。


右手に三四郎池を見下ろす代々木系側。
安田講堂から正門までは
反代々木系。


それぞれの陣地で、
代々木系は赤門放送
反代々木系は
時計台放送で
アジテーションを交錯させたようである。
そして三四郎池。
三四郎池といえば
それはもう夏目漱石であろう。

夢か現か
池の畔に立つと
三四郎と美禰子の幻影が
浮かび上がってくるかのようだ。
池の形は、<心>の字になっている。

米ボストンのハーバードの
銀杏並木にハーバードおじさん他、
"北の某"の北大ポプラ並木、
上智大の
グラウンドを見下ろす高台から見る
丸ノ内線
などなど
大学と景観美は数あれど、
東大と三四郎池は
ひと際、味がある。
"文"の都(京)たる文京区。
東大がここにあるのもまた頷くことができよう。
本郷、西片一帯は錚々たる"文"の
カルチュラル・エリアである。
最後は、
・安田講堂
・三四郎池
と共に
東大散策の三大主砲を成す
<赤門>


1827年、
加賀藩主前田氏に嫁いだ
十一代将軍・家斉の
息女・溶姫のために建てられた
朱塗りの御守殿門。
国重要文化財。

こちらは正門。

*****
激動の時代。
それは善し悪しは別として
且つ
清濁併せ飲み
虚実皮膜の世界観を包含して
<夢>があったのではないか。
その夢の跡が、東大にはある。
過去の
夢の跡を抱えつつ
その町もまた今を生きている。



昭和の香り漂う
老舗の喫茶や個人古書店が
軒を連ねる大学前のストリート。
最後にもう一句。

赤門安田三四郎
心(しん)の字描く 夢の跡
今年は
安田講堂攻防戦から、ちょうど40年。
同じ年、
東名高速が開通。
その東名高速は昨日、
<東京>に戻ってくる車で
40kmレベルの大渋滞だった、と。
まさに
10年前と比べても
相変わらず
"平和ボケ"ニッポン驀進中、といえよう。
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