2012年08月11日

バカ尾根


今週は、GENOMシリーズの
8.4ボクシングと
昨日8.10登山をフィーチャー。

登山から。

早朝5時出発、6時20分登山開始。
登山5時間45分、下山4時間15分。
帰路の東名大渋滞で10PM帰宅という闘い。

<富士よりキツい>と
ダモシ、アントニオ、ワイフ三人とも口にした。

まずはフェイスブック寄稿分から。

:::::
GENOM-登山シリーズ第二弾。
無事に登頂と下山を終了。
22時、帰宅。

既載の通り、
登山5時間45分、下山4時間15分。
頂上での小休憩以外、合計10時間の格闘。
下山時、アントニオ選手はめずらしく泣き、
相当厳しかったようですが、フィニッシュ。

<馬鹿尾根>と悪名高き尾根を縦走するコース。
なるほど、その悪名通りで
「ん?」→「あれ?」→「あれれ?」
そして「あれっ?!」と来て、
最後は「何だこれは!」と
腹が立つほどの道でした。

富士山よりキツい。そう感じたほどです。
それもそのはず、
富士山での連続した登山における
最高標高差は五合目→九合五勺の
山小屋の約1,190m。
しかし今回はそれを上回る約1,291m。
連続して登山(及び今回は下山も)での
標高差は富士山を抜きました。

その上、
前述の通りの<馬鹿尾根>と呼ばれる
『どうしてこういう登山道になるのか?』
と理解出来ないほどの苦しい構造が重なり、
もはや体力が高い方の私もアントニオも
(特にアントニオにとってはあり得ない)
筋肉痛と張りで、
足が動かない状態になってしまいました。
帰路の東名も大渋滞。
ドライブ中、両足がつるという
危険な状態にも陥ってしまいました。

とまれ、無事に下山までを完遂し、成功。
レジャーではなく、
またもや今回も
修行、特訓と相成ってしまいましたが、
それでも子供の教育上、
最後までやり切ることの重要性を
また今回も彼は得られたことでしょう。
寝不足の中、よく頑張りました。

今夜は、本気の本気で眠ります。
リアルにこの山はもう二度と行かないでしょう。
登山と下山を一気に連動しての部分として、
とてもつらかった。もうここはイヤですね。
本当にここは<馬鹿尾根>であると思います。

山は標高の高低ではありません。
谷川岳とて2,000mに満たない山ですが、
遭難率がたいへん高いといいます。
そしてその登山の形式と登山道の形状、仕掛け、
天候等。これらによって大きく異なってきます。
それに合う合わないもまた、しかりですね。

特に下山。これがたいへん厳しいです。
ここの下山は、富士山よりたいへんでした。
:::::


そして今日、フェイスブックのみの読者も
見られるようにウェブ上に掲載した文章を、
ダモログ定番の考察モノとして以下に掲載。

写真はフェイスブックにアルバム掲載したが、
今回それもブログのみの方も見られるようにした。
出来ればアルバムの写真を見ながら
下記考察をお読み頂けると意味もより分かると思われる。

◇フェイスブックのアルバムを
以下をクリックすれば
フェイフブック未登録者も閲覧できる。

http://www.facebook.com/media/set/?set=a.230615887060292.48765.100003356468759&type=1&l=b89c795358

で、本編は以下。

<GENOM.2-登山-バカ尾根>:::::::

<バカ尾根>と揶揄される大倉尾根。

富士山よりキツいと感じたのは、なぜなのか。
そして、どうして苦戦したのか。
アントニオすら苦しんだ要因は?

ブログ恒例の考察シリーズを特別掲載。

往路、富士山の九合五勺に登るよりも時間を要した。
復路、富士山頂から静岡側五合目まで下山するよりも
時間を要した。

自身、山が初体験ならいざ知らず、
アントニオ含めて富士山にも登っている
(アントニオは対富士は、悪天候での撤退により
 八合目まで。とはいっても彼は八合目まで
 息も切らせず登った)。
那須岳の主峰・茶臼岳も登頂している。
そもそも、空手その他で体力もある。

にもかかわらず、という部分でのWHY。

A:
連続して登り(下りる)標高差

富士山。
静岡側五合目から九合五勺まで一気に行った。
その標高差は、1,190m。
ただこの場合、途中から高度3,000を超えるため
酸素が薄くなり苦しくなってくる。

茶臼岳。
標高1,915mの山。
七合目から車で行き、
九合目1,684m地点までロープウェイ利用。
そこから頂上まで登った標高差は231m。
それでも楽ではなかった。
ここの上りはボルケーノ特有の岩場ばかりになる。

そして今回。登山口は200m地点。町の中だ。
そこから頂上1,491mまで標高差は1,291m。

連続して登った標高差は
富士山(静岡側五合目→九合五勺)より
100m高いことになる。

山頂の標高だけで見れば、
いささか油断が心に生じるのだが
実際に登る標高差として考えると
富士登山(静岡側五合目→九合五勺)よりも
高いのである。

山小屋の主人に呟く。
<富士山よりキツい気がしますね・・・>

主人は、意を得たように応える。
<さよう。ナメたらいかんです。
 標高差はかなりありますからね>


B:登山ルートの構造

これがメインの要因であり、
このBの中に様々な要素がある上、
それぞれの要素がもたらす罠や
心身両面への悪影響が、
この大倉尾根の悪魔のような所作である。

特に様々な
アトモスフィア(大気感/空気感)が
まさに仮面貴族のように間断なく登場し
心理的に大きく疲弊させる。

多種多様なアトモスフィア=
1/ハイキングや遠足的世界観
2/岩場、崖などの苦行&危険世界観
3/上高地的高所リゾート風世界観
4/不規則ながら延々と続く階段がもたらす
  修行的世界観
5/ジャングルを往く的世界観
6/熊野古道のような石畳的静寂世界観

これらが間断なく登場する。
そして、
アップダウンの「ダウン」と
時々出てくる平地の「ハイキング」感が
大いなるアメとなって、
延々と続く「アップ」の"延々と"ぶりに
拍車がかかり、そのムチ度合いが尋常ではなくなる。

"迷惑"なのである。
あるいは奥田英朗氏の小説のタイトルのように
"無理"と言いたくなる心理状態になる。

要するに、断崖絶壁やエヴェレストの標高、
超絶悪天候、3,000mや6,000m的世界観で
酸素欠乏分水嶺ごと苦しくなる高度ではない
ことから、「楽だろう」と想像しがちな状況で、
先が(終わりが)見えない中で
延々と不規則な幅、足元が変化(石畳だったり
岩だったり土だったりその他もろもろ)する
「わざと?」と思える作りの<階段>が
続くことで、心が次第に萎えてくるのである。

<これはヒドい!なぜ階段にするのだ!>
と叫ばざるを得なくなる。

富士山のように、
晴れてさえいれば次の目標
(六合目、新七合目、元祖七合目、八合目、
 九合目、九合五勺・・・云々)を
視界に捉えながら黙々と登るのと、
先がまったく見えない
(何度も行っていれば分かるだろうが、
 ここではいずれも初体験としての比較である)
中を、延々とこれを登らされる世界は厳しい。

まさに「登らされる」気持ちになってしまうのである。

しかも忌まわしい階段が終わると、
岩場を登り、ジャングルを抜け、
一人分しか歩くところのない両側は崖という
世界も間断なく登場し、
それらを終えればまた延々と続く階段・・・。

<これはもうイジメだ!>とまた叫ぶことになる。


C:
下山時のNO-MAS的イヤイヤ

下山時はもはやノーマス!と叫び、
赤ちゃんのようにイヤイヤしたくなる。

本当にこれを登っていったのか?
と、己を逆に褒めることになる。
むろんそれは富士もそうだが、
富士よりもその感情度合いは激しい。

B要因の構造にも重なるが、
下山時も「目標」がまったく見えないのである。
ここまで行けば云々という安心感が
冨士にはある。

前述の通り「合目」ごとの到達点が見えるからだ。
悪天候で見えない場合でも
初体験の場合でも
「合目」ごとを確実に目標として登っていく
ことで、安心感が生まれる。いわばゴール感だ。

ここまでまずは行こう。
よし次はここまでだ、というふうに。

だが、大倉尾根はない。それがない。

そして、B要因の構造が
下山時に一気に心身両面のダメージとなって
襲いかかるのである。

心理的に「早く下りたい。帰りたい」がある。
予想を大幅に上回った所要時間。
天気も変わりやすい中、一時、視界不良で
ライトをつけることにもなる。
そして、日没的様相が漂いつつある。

焦りが生じる。
早く帰りたい。もう下りたい。ゴールしたい。

下山こそ、登山の最大の敵ともいえようか。

アップダウンがあった。
だから疲労しているのに
下山時でもまた登らされる。

例の階段。
これは登りよりも下りでダメージを受ける。

登りは何とか「キツイなぁ、結構」で済んでいたが、
下りは、具体的に脚、足に負担が増えてダメージを負う。

キラー・ワイフが心理面を分析した。
なぜ肉体的にも精神的にも強いアントニオが
ここまで苦しんだのか。

登山時は元気満々だったのに
下山時に泣くほど苦しんだのはなぜなのか。

「階段だ」と。

<不規則な階段が、
 自分の脚で登るというのではなく、
 階段に合わせて登らなければならないから
 精神的に追い込まれていったのだと思う。
 岩場は自分で足場を選び自分で上り下り
 する。彼は受け身が嫌いなのだ。
 すべての異なる幅と足場の階段に
 合わせざるを得ない、しかもそれは大人の幅。
 それが最大の要因でしょう。
 すべては、下りのあの階段>

と分析する。

同意する。

それにプラス、やはりゴール感だろう。

大人側が、アントニオを鼓舞するために
<もう少しだ。がんばれ>と言うのだが、
その言っている大人側にも
どこまで下りれば(登りもそうだが)
ゴールなのか、
あるいは次の目標はどこなのかを
まったく把握出来ていない。

だから言葉自体が空虚なものとなる。

最後、父親としてシュールな言葉を
投げかけるしかなくなる。

泣きながら下りるアントニオに対して

<登山は、頂上まで行くことがゴールではない。
 下山まで無傷で事故なく下り切って、
 やり切ってこそ、ゴールだぞ。
 ゴールに辿り着くまでゴールは来ないのだ。
 思いっきり、フザケルナ!と叫んでいいぞ。
 でも、やり切るのだ!>

だから、富士山でも何でも
頂上に到達した際に、毎度、達成感はないのだ。

感動とかそういうものは、ない。

あぁ、これを下りなければならないのだ、と。
それが先立つからだ。
イヤだ、と。避けたい、と。
でも、下りなければゴールには届かない。

通常、目標やゴールは「頂点」だ。
何事もそうだろう。

だが、ひとつには、
山は、頂上が必ずしもゴールではない。
人によって異なるが、
我々にとっては頂上がゴールではない。
無事に下り切ってこそ、
スタート地点まで戻ってこそ、である。

それが、「やり切った」ということになる。

(空手の試合で勝利の喜びや敗北の悔しさでの
 ものは除き)久しぶりにアントニオが泣いた
のを見た。

リアルにつらくて泣いていた。

だが、やはりそこは、やり切ったところに
大きな意義がある。

登頂し、そして下りてきた。
それをすべて己の心身すべてでやり切った。

シンプルだが、
こういうことのひとつひとつの積み重ねが
成長の糧になる。

むろん、仮に「もうイヤだ」と彼が
歩を止めた場合、
どんなに危ないところでも
きっとその場に置いていくだろう。
そういう親だということが
本人も分かっているから
それも最後までやり切るバックボーンになっている。

<ダディなら、置いていくだろうな>と
彼は分かっている。

<やり切らないと認められないだろう>ということが。

下山途中、
この登山をやり切った場合の報酬を
当初の500円から
2,000円に引き上げた。

途中で1,000円になり、
それが本人のリクエストで1,500円になり、
最後は2,000円になった。

それを認めた。

<富士山より楽勝だよ>という言葉だけで、

<バカ尾根>であることを隠匿していた
罪滅ぼしでもある。


アントニオは言った。

<自分が親になって
 子供が行きたいと言っても
 ここには来ない!>

気持ちは分かる。

我々はもう二度とここは登らない。

だが、彼はきっと行くだろう。
自分の、仮に直系遺伝子(男児)が
行きたいと言ったら、
彼は連れていくだろう。

そして、今回のことを想い出すはずだ。

人生は予告編の連鎖。
そして、すべての過去は物語になる。


posted by damoshi at 16:15| | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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