2008年08月13日

殺生石










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中国、インド。

今や世界の中でも
"絶好調"の国の筆頭格にある
この二つの国に、

かつて

美しい女性に化けて
世を乱し悪行を重ねていた

白い面に金毛、九つの尾を持つ

狐がいた。







その狐は、800年前のニッポンに上陸。



妖しい狐は
<玉藻の前>と名乗り

朝廷に仕え(ているフリをして)、


ニッポンを滅ぼそうと画策した。





しかし

時の陰陽師・阿部泰成に
その正体を見破られて、

那須野ヶ原に連行された。



それでもこの妖狐は
旅人や領民に
危害を加えようとしたため、


朝廷は
担当者にミッションを与えて

これを退治した。





しかしながらその妖狐は、<毒石>に化身。



以降、

オールウェイズこの地でポイズンを放ち続け、

人々に害を与えた。




それゆえに

これを<殺生石>と名づけ、

人々に、これに近づくことを禁じたのだが、

会津の示現寺の開祖の和尚が
石にこもる妖狐の恨みを封じ込めたことで、


毒気が弱まった。



これにより
この地に人々が近づくことが可能となった。






しかし現在の
このエリアとしての<殺生石>は、


今でも
硫化水素ガスを発していることから、

風のない
曇天の日には近づく際の注意が促されている。






黒羽でご機嫌になっていた松尾芭蕉が、

<おくのほそ道>で

脚を伸ばした那須エリアの
もう一方の主軸。



それが、この<殺生石>である。











*****









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芭蕉が詠んだ句は、

<石の香や 夏草あかく 露あつし>。




紀行文学<おくのほそ道>内では、

殺生石について
芭蕉はこう書いている。




<殺生石は温泉の出づゆ山陰にあり、

 石の毒気いまだ滅びず、蜂、蝶のたぐひ

 真砂の色の見えぬほど重なり死す>。





真砂(まさご)とは、
このエリアの地面の砂の色。


蜂や蝶の類いが死んでいる
ということはさておき、

紀行文その通りの現状が
未だにあることに驚くが、

山々の奥下という位置関係と
周辺に充満する
硫黄のフレグランスを鑑みるに、


芭蕉が訪れた当時は

今以上に苛烈な
火山性ガスが発生していたであろう
ことを想像することができる。




詠まれた句を振り返っても同様だ。



ガスの噴出量は激減したとはいえ、
硫黄カラーの巨石たちや
フレグランス、噴気などは

存分に

<おくのほそ道>当時の姿を
想起することができる。






当時と比べて
失われているものがあるとすれば、


妖狐の妖気か。




ただ、

今回は
夏のデイタイムに訪れたわけだが、

たとえば秋の夜、

その他のシーズンと時間帯であれば

未だその妖気は残っていて
発露される可能性はある。



それだけ

那須温泉神社を含めて
このエリア一帯には、


隠匿された妖気の気配が残っている。







芭蕉は、1689年に殺生石を訪れた。



ダモシが訪れたのは
それから319年後の夏、一昨日のことである。










松尾芭蕉<おくのほそ道>探訪。


先般の
黒羽、雲巌寺につづく


那須エリアから、


那須温泉神社と殺生石を写真で。











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那須温泉神社の参道脇の山。

これまた独特のアトモスフィア。







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老若男女、
地元民、観光客など

多くの人が訪れる。






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メイン・エントランス。




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参道。






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本殿へ向かう階段。

那須温泉神社は、
那須エリアにある約80社の総本社でもある。







境内から殺生石へ続くが、

そこは谷底である。




まずは境内から殺生石側を。



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ここへ歩を進めて眼下を見やると、




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この谷底へ山道を降りていく。


途中、

"熊出没注意"のサインがある。




谷底間近の地点にある橋。


芭蕉が詠んだ句に登場する<石の香>。
その名を冠する橋が架かる。



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そして殺生石。


その写真集を。






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那須温泉神社に一つ、

殺生石に二つの

芭蕉の句碑が立つ。




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その他、殺生石には

盲蛇石や
教傅地獄などなど見どころがある。


それらはまた別機会に取り上げたい。











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<那須温泉神社> <殺生石>


JR新幹線/那須塩原駅から
車で約30分。


観光メインの那須街道を上がり、
那須温泉まで進む。


拝観及び入場無料。










芭蕉と那須は、

風流な<遊行柳>へ続く。





































posted by damoshi at 02:21| おくのほそ道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月02日

新版<江戸深川・芭蕉めぐり>








日本屈指の紀行文学、<おくのほそ道>。



当欄ダモログでも
カテゴリーとして独立して
<おくのほそ道>がある。



那須の雲巌寺、黒羽の芭蕉ゆかりの地を
先般掲載した。

松島は
<松島、ふたたび>で軽く触れたが、

追って
二代目ダモログでディープに掲載した
<松島>として、

・瑞巌寺
・五大堂
・雄島

その他、加筆修正の上
再掲載するが、




<おくのほそ道>自体の

エントランスたる場所の

江戸・深川。



この加筆修正による新規再掲載から
始めなければならないであろう。





東京、江戸。
そのダウンタウン情緒豊かな町・深川を往く。









*****










松尾芭蕉と
門人の曾良による
約5ヶ月半、約2,400kmの長途の旅。

その旅をめぐる
カテゴリー<おくのほそ道>。




芭蕉、46歳。


1689年に
その旅はスタートした。

スタートの地は千住だが、

実質的には
当時、芭蕉が庵を結んでいた
東京・深川こそ始発点である。


そこから旅を開始して、北千住へ向かった。



その深川に、芭蕉を訪ねる。









*****








いわゆる東京23区の
ダウンタウンに属する江東区深川。


銀座、新橋、日本橋などと
<隅田川>を分水嶺として分かれ、

国技館のある両国や
"もんじゃ"で知られる月島と隣接するエリア。


大石内蔵助率いる赤穂義士が
討ち入りの前
最後のミーティングをしたといわれる
富岡八幡宮、

日本一の大神輿・深川不動尊など

ヒストリカルなランドマークの他、


伊能忠敬や平賀源内なども
居を構えたという


オールド・ファッションドな風情が漂う町。







江戸時代に下総国関宿藩主の下屋敷だった地を
整備し、

近世の庭園における
貴重な回遊式築山泉水庭園となっている
清澄庭園や、

日本史上最悪の
落橋事故(1807)年となった永代橋、

さらには
ポスチャー華麗な清洲橋などなど、

多くの見どころを有している。



夏には最大のイベントである
江戸三大幣<深川八幡まつり>
が毎年開催され、大いに賑わう。




食では、

日本五大銘飯といわれる
<深川めし>で知られる。

江戸時代の漁師の
日常食である深川めしは、
アサリが主役だ。









*****








まずは、

芭蕉記念館。



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江戸日本橋から
この深川に移り住んだ芭蕉の、


いわばホームである。

松尾芭蕉に関する資料や、
芭蕉が着用していた袈裟
などが展示されている。


その中には、

芭蕉が愛した<石の蛙>も
収められている。




<ふる池や 蛙とびこむ 水の音>

の句でも知られるように、

芭蕉は蛙に
繊細な視線を注いだ。


それまでは、
句に蛙を"音"として用いる手法が
なかったようで、

その点でも
芭蕉のパイオニアぶりが
表れていると考えられる。





この記念館をエントランスにして、


芭蕉の銅像が建つ


■芭蕉史跡庭園



■芭蕉庵跡

が近隣に並んでいる。






深川での
芭蕉の庵は二か所残っている。


最初のそれは、

1917年の大津波によって
一帯が破壊された際に、


前述した
<芭蕉遺愛の石の蛙>が
出土したことから

その地であると認定された。


上述した句が詠まれたに等しく、

ここが
<芭蕉庵跡>として
多くの人々に親しまれている。





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石碑に
<芭蕉庵跡>と記されている。


その石碑や
この芭蕉稲荷内には
多くの石の蛙が点在している。




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そして

深川エリアの
芭蕉探索の主軸のひとつが、



<芭蕉史跡展望庭園>。



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隅田川と小名木川が
交差する高台にある
芭蕉史跡展望庭園。

清洲橋も遠望できる。





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隅田川を見つめる芭蕉の
スタチュ。




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俯瞰で見る構図。

隅田川を優雅に行き交う
遊覧船。



この芭蕉スタチュは回転して
向きを変えるばかりではなく、

夜にはライトアップされるという。


この庭園の中には
人工的な池があり、

その中を
春の季節には
膨大数のおたまじゃくしが泳いでいる。


芭蕉と蛙の関係性が窺える。









隅田川を見つめる芭蕉の
背後には萬年橋がある。




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<萬年橋>。


隅田川へ合流する
小名木川に架かる橋。


ここは、川船番所跡でもある。

川船を利用して
この小名木川を通る
人と荷物を検査する番所だった。


江戸時代、
関東地方から江戸に入る際には
この萬年橋を通り、

神田や日本橋といった
江戸中心部(東京都中央区)に
荷物が運ばれていった。


いわば、江戸の出入口でもあったのが

この場所となる。












*****










萬年橋を渡り、
江戸市中を歩くこと5分。



<清澄庭園>にたどり着く。





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東京都の公園である清澄庭園。

築山、泉水、枯山水によって
構成される回遊式築山山水庭園。


関東大震災の際に、
この地が付近の住民の
避難所としても活躍。

もともとは岩崎弥太郎の所有だったが
後に東京市(当時)にドネーションし

整備の上で
1932年に一般公開されたという。


現在は東京都の名勝に指定されている。




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古池と松が、江戸情緒を見せる。





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池の中央には、松島のような
中島がある。




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この池にも春の季節には
多くのおたまじゃくしが泳いでいる。

この庭園は、日本各地の名石が
集められていることでも知られる。




そして

この庭園内に芭蕉の句碑が立っている。




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まさに

文字通り


<古池や 蛙とびこむ 水の音>。










*****









芭蕉は、

先述の<芭蕉庵跡>から
千住へ向かい

<おくのほそ道>へ

旅立ったのではない。



清澄庭園から南へ
50mほど進み
小さな川に架かる海辺橋を
渡りきった場所にある

<採茶庵>が

リアル・スタート地点である。




旅は、住処を出るところから
始まるのである。



居住するアパートメント、家。

それらのドアを開けて
足を一歩踏み出したときに、

旅はスタートするのである。







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<採茶庵>跡と芭蕉のスタチュ。


芭蕉の門人・杉風の所有する家を
芭蕉が譲り受けた。




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海辺橋と川。

この川を西へ進めば、
隅田川に合流する。


西を見れば
清洲橋と永代橋の
ちょうど真ん中あたりを
この川が流れていて、

採茶庵もその位置にある。





この川沿いを西側(隅田川)へ
長い遊歩道があり、

そこに
芭蕉の
<おくのほそ道>での句が
記された木板が並んでいる。




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この句は
旅立ちの際に詠んだもので、


<魚>こそ

芭蕉のスポンサーであり門人であった
杉風(幕府の魚御用だった)を
表しているという。











*****










一連の

深川芭蕉めぐりは、


採茶庵から西へ
<隅田川>へ向かうことで終わりを迎える。




隅田川には
周知の通り膨大数の橋が架かり、

それぞれに
ヒストリカルな要素満載だが、


その中でも

■勝鬨橋
■清洲橋
■永代橋


の三つは、


日本の都府県における
道路橋では史上初めて


<国重要文化財>に指定されている。



その中で、

さらにこのエリアにおける
隅田川に架かる橋の代表
といえば、


<清洲橋>と<永代橋>だ。









まずは前者、清洲橋。


芭蕉史跡展望庭園からも
見えた橋。


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大正ロマンと西洋的風情を
感じさせる見事なポスチャー。



それもそのはず、

ドイツ・ケルンの吊り橋を
モデルとして建てられたという。


筆者にとっては
ニューヨークの
クイーンズボロ・ブリッジの
類いに入る
<優美>さを兼ね備えているのが、

この清洲橋だ。



現在の橋の竣工は、
関東大震災後の復興による1928年。

長さは、186.2m。


明石家さんま主演のドラマ
<男女7人夏物語>(1986年)その他、

ドラマなどの舞台として登場する。





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隅田川沿いの遊歩道は広く、長い。

写生、写真撮影、犬の散歩、
ジョギングなどなど

多くの人が
それぞれの憩いの時間を過ごし、

優雅な橋を眺める。





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日が暮れる頃合い、
哀愁を帯びる清洲橋もまた、良い。








そして永代橋。



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この橋はまた、
ライトアップされるため

夜の光景もすばらしい。



徳川綱吉の五十歳記念で
1698年に架橋された名橋。



その21年後、

先述した通り
この深川の大イベントである
富岡八幡宮祭礼日に

あまりにも多くの人出があり、

その重みに耐えきれずに
永代橋は、

落橋した。


1719年のことで、
死者は何と1,500人を超えるという
未曾有の大惨事となった。



その後、曲折を経て
日本初の鉄橋として架橋。

関東大震災で被災した後は、

清洲橋同様に
震災復興計画の一環として
また再架橋がなされて現在に至る。



・日本初の道路橋/鉄橋
・日本初の径間100mオーバーの橋
・現存する最古のタイドアーチ橋


など、多くの冠を頂く永代橋だが、


討ち入りを果たした後に
凱旋する赤穂義士たちが
通った橋としても

広く知られている。







両国で討ち入りを果たした
赤穂義士一行は、

泉岳寺に凱旋するまでに

都内各所を通過した。




先述した<萬年橋>も通過している。



両国橋東詰め

一之橋

<萬年橋>

上之橋

と通過して、


<永代橋>を通って墨田川を渡った。



その

永代橋を渡る前に
一行が休憩を摂った場所が

今もこの深川に残されている。





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永代橋東詰めにある

<赤穂義士休息の地>碑。




墨田川を船で下って
泉岳寺まで凱旋するという計画は
変更を余儀なくされ、


両国から隅田川沿いを
徒歩で南下してきたわけだ。


そうすると当然、
この深川エリアを通過することになり、



<萬年橋>そして<永代橋>を
それぞれ渡ったわけである。



永代橋を渡れば日本橋。

箱崎

汐留

を経て、

築地本願寺を過ぎて
浅野内匠頭邸に
仇討ちを報告し、

新橋などを通過して、

三田へ。


そして
いよいよ泉岳寺へ凱旋


といった大枠での流れとなろう。


(赤穂浪士と泉岳寺は、別掲載)。







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今は
隅田川の上には
首都高速が走り、

近代的な高層ビルが立ち並ぶ。



それでも

両国、深川、月島などの
隅田川を挟んだ
"こっち側"は、

古き良き江戸の名残を
存分に感じられる。




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最後は、<芭蕉そば>。

立ち食いそば屋は、
まさにそのまま<芭蕉そば>。


深川の中心部、
芭蕉記念館の近隣にある。

散策の合間に食してみては。

3PMで店じまいのため
早めに暖簾をくぐりたい。











:::::





<深川・芭蕉めぐり>


東急田園都市線│東京メトロ半蔵門線
<清澄白河>駅下車

渋谷→清澄白河(22分)


芭蕉記念館(100円):
駅下車徒歩約8分

芭蕉史跡展望庭園(無料):
同約10分

清澄庭園(150円):
同約10分

隅田川:
同約10-15分程度で遊歩道へ











































posted by damoshi at 21:09| おくのほそ道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月20日

<逆・おくのほそ道>-5: 馬に乗る芭蕉、マスクマン曾良







<おくのほそ道>で、

芭蕉のセコンド・曾良は
ずっと一緒にいたわけではない。


みちのきを歩き終わった後の
北陸路においては、

体調不良を理由に
芭蕉を置いて
先に途を進めている曾良。


それでも
後から来る芭蕉のために
道筋と宿の手配などをしていたという。


曾良は
ある意味で、

芭蕉にとっての

優秀なツアーコンダクターだった
とも

ひとつには考えられないか。





その曾良の先行には、

行く先々で
リスペクトされて歓待を受ける
芭蕉に嫌気がさしたとも

言われているが、


芭蕉スパイ説同様に

曾良の先行にも諸説あるから

面白いわけである。



あらゆる真偽のほどは
芭蕉と
その次には曾良、

この二人以外は分からないだろう。



だから
後世につづく人々は多種多様な解釈と
幻想と夢を抱く。



芭蕉の旅の資金はどこから出ていたのか。

或いは芭蕉はそれをどう工面したのか。

ボディガード兼ツアーコンダクターだった
曾良のペイロール(給料)は
どのように支払われていたのか。

インターネットなど
タイムリーで世界中に知れ渡る
情報ソースがなかったあの時代に、

芭蕉が各地で歓待されるほどに
有名人だったとすれば、

その伝聞はいかように
各地に広まったのか


等々、考察は尽きない。

そしてリアル真実はどこにあるのかも
誰も断定できない。



だから想像力が試されるわけであり、

そのイマジネーションを
どのように発揮して描いたとしても

それはまた、自由である。



ファンタジーとは、そういうものだろう。



また、昭和の時代までは
ニッポンにも確実にそういう
想像と創造のファンタジーは存在していた。



あらゆるカテゴリーにおいて、である。







*****






その、芭蕉と曾良。


<おくのほそ道>ゆかりの各地には

当たり前のように
芭蕉の句碑や芭蕉のスタチュがあるが、


二人揃ってのスタチュは
なかなか頻繁に見られるものではない。




しかし、

さすがに黒羽。

最長逗留地だけに、
そこには芭蕉と曾良の
二人揃ってのスタチュがある。




黒羽エリアに在る<芭蕉の里>だ。



同地はまた

・芭蕉公園
・芭蕉の道

そして

・芭蕉の館(ミニ博物館)

が揃い、



芭蕉並びに<おくのほそ道>ファンを

喜ばせているわけである。








*****







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いかにも

<ニッポンの田舎の夏>をイメージさせる

どこか
懐かしさを感じさせる一画が、芭蕉の里。



田んぼの緑が鮮やかである。






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ニッポン人ならば

誰の心の中にも無意識のうちに存在する

良い意味での"田舎"。

その夏の風情は、蝉の鳴き声や蜻蛉、蝶などが
クロスすることで

さらに心を穏やかなものへと誘う。





"寂れた"&"終わった感"
そして
"ドン臭い"
という世界観と、


ニッポンの<田舎>

の差異は甚大であり、

意味はまったく別物である。






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那須エリアや
みちのく路の紫陽花は、

東京より若干遅れてシーズンを過ごす。

だが、いずれも梅雨時。

梅雨の雨に最も似合う花は、紫陽花。



ここにも石段と紫陽花。







*****






先の寄稿で最後に掲載した

芭蕉の紀行文。

黒羽で農家の人に馬を借りた話である。


その文章には続きがある。



めでたく馬を借りて途を進めた芭蕉と曾良。

二人は人里に辿り着く。





<やがて人里に至り
 お礼のお金を鞍つぼに結わえつけて、

 馬を返したのだった>



とある。




芭蕉は約束通り、

その馬を持ち主の元へ"返した"のだった。




その、馬の貸し借りの際のシーンから

曾良が句を詠んでいた。


馬を借りた芭蕉の後ろから
小さい子供が二人追いかけてきた。

一人は幼い娘であり
名を"かさね"といった。


芭蕉は

<聞き慣れない名前だが
 優しい風情の響きがある>

と高評価を下している。


その娘を基軸に曾良が句を詠んだわけである。





<かさねとは 八重撫子の 名成すべし>。




その意は、


上品で美しい名前の"かさね"は、
花ならば
花びらが重なり
美しい八重撫子の名といったところか


ということだ。





かように

黒羽における

馬を借りるくだりでは、

かなりフィクション的要素も交えながら
芭蕉は書き記しているが、


黒羽全般における紀行文は
芭蕉自身がリラックスしていたのか、

ストーリーが
良い意味でライト感覚を醸し出している。



そのあたりにも

芭蕉の
黒羽でのご機嫌ぶりが表れているのだと
考えられる。




このチャプターを象徴するスタチュが、

<芭蕉の館>前に立つ
芭蕉と曾良のツーショット・スタチュである。





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曾良が指差す方向は、雲巌寺か。


このスタチュを見て
感じたことのひとつは、


<芭蕉、ひどいのでは?>


ということである。




むろん
当時も既に有名人で
リスペクトされる存在だった
いわゆる大物・芭蕉。

片や曾良は門弟。


芭蕉だけが馬に乗り、
曾良は徒歩というのも
頷けないことはない。


だが、

このスタチュを見てしまうと
曾良が
何となくかわいそうに思えてくるわけである。



芭蕉が
<おくのほそ道>スタート時点で45歳だったが、

弟子の曾良とて既に40歳だった。


むろん
現代の40-45歳と
当時のそれでは

体力的精神的は差し置いても、

認識年齢は
比較にならぬほど老人的世界観にあっただろう。



40歳の曾良は、それはそれはタフさがなければ
かなり厳しい旅だったことは
想像に容易い。



しかも
行く先々で己はある意味で黒子的であり、

常に主役・芭蕉の
太刀持ち露払い役を余儀なくされていたことから
無意識のうちに発生する


精神的苦痛と疲弊は

相当なものがあっただろう。




しかもこの黒羽は、

芭蕉曰くの"知人"が
多く存在したばかりか、

歓待されたことで

芭蕉がご機嫌になっている。



己は影の男・曾良。



そういうシチュエーションを
想像した上で、


さらにあのスタチュを目にすると


いくらなんでも
芭蕉はひどいのではないか?



感じてしまうのも
致し方ないのではないか、と。



特にそのスタチュの曾良の顔が

<犬神家の一族>に登場した
"白いマスクマン"犬神佐清を彷彿とさせ、


また
<犬神家の一族>の舞台が那須湖畔
だったことも相まって、


曾良に同情票を一票投じたダモシであった。





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<これじゃあ、犬神家の一族のマスクマンだろ>




ダモシは思わずワイフに呟いた。











:::::






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<黒羽・芭蕉の里>


JR那須塩原駅から車で約30分。

芭蕉公園、芭蕉の道などを含む。

芭蕉の館というミニ博物館(入館料300円)では、
<おくのほそ道>全行程を
模型マップで展示する他、

黒羽エリアゆかりのエキシビション等が
展開される。


芭蕉と曾良のスタチュは、
芭蕉公園最高所のその博物館前に在る。





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posted by damoshi at 00:52| おくのほそ道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月19日

<逆・おくのほそ道>-4: ご機嫌な芭蕉〜雲巌寺





芭蕉の
<おくのほそ道>における
江戸・深川から関東、そして奥州の
ルートである前半の、


ある意味でハイライトともいえる地が
広義での那須となる。


スパイ説幻想と
IFの夢広がる仙台と松島、

"夢の跡"たる平泉、

そして山寺。


それらの
みちのく三本柱を前にした
芭蕉が、

純然と
訪問を思慕し、そして喜び、
最長期間逗留に至った那須。



現在の世界遺産・日光を経由して
同じく栃木県に入った芭蕉。


那須の芭蕉ディストリクトは、
主に<黒羽>と<那須温泉>。

そのディテールとして登場するのは、

<雲巌寺>と<殺生石>である。





当欄ではまず前者の、

隠れた古刹
<雲巌寺>を取り上げたい。




実際に足を向けてみると、

芭蕉が
長期逗留に至ったマインドの一端が
垣間みられる。








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山道を上がっていくと
不意に現れる雲巌寺。



武茂川を
朱塗りの反橋で渡り、

石段を上っていくと山門に辿り着く。










*****








芭蕉の<松島>に関しては、

主に
西行の足跡を辿り精神性を感じるものだったが、


<雲巌寺>についても

芭蕉にとっての
リスペクトすべき先人の地を訪ねる
という思慕マインドが根底に
流れていたと考えられよう。


その対象が、仏頂和尚。

常陸国鹿島根本寺の住職だった和尚。

和尚はある諍いの際に
江戸・深川に滞在していた。

その折に芭蕉は和尚と邂逅したとされる。

芭蕉は江戸・深川で
和尚に参禅する。



芭蕉は
己が禅師である和尚が修行をしたという
山居の跡を訪れて見学したいと願った。


その山居跡が、雲巌寺。





<たて横の 五尺にたらぬ 草の庵
 むすぶもくやし あめなかりせば>

と和尚が詠んだ山居の跡を
芭蕉は訪ねたかった。




そして念願叶い雲巌寺を訪れた芭蕉は、


<木啄も 庵はやぶらず 夏木立>

の名句を詠み礼讃した。




その意は、

<さすがのキツツキも、
 この高徳な仏頂和尚の庵だけは破らぬ>。




時に元禄2年4月5日(陽暦5月23日)。

多くの人々を従えて
山道を登り、

景色を愛でながら

いよいよその山門をくぐったということである。



雲巌寺を含む那須エリアでは、

芭蕉は多くの人々に歓待されたという。


それに対して
芭蕉がご機嫌になったことは
想像に難くない。


自身をリスペクトしてくれる
多くの人々に
訪問を歓迎されたら、


当然ながら
長くそこにいたくなるものであろう。



しかし、

だからといって
その地が面白くなければ
さっと踵を返すか
新たな旅へ進む。


長逗留を許すほどの
奥深い凄みが、

この雲巌寺には存在している。










*****









ungan6.jpg




石段を上がり切ると山門。

山門をくぐると正面に仏殿。

正式名称は
臨済宗・東山雲巌寺。


東山の文字が刻まれている。





雲巌寺は1283年、開山。


筑前の聖徳寺
紀州の興福寺
越前の永平寺

と並ぶ


禅宗の日本四大道場として誉れ高い。






山奥に佇む雲巌寺。

ひと際
山奥高台にあるのが本殿。



山寺の様相を色濃くする。




ungan1.jpg



山門をくぐった正面の仏殿の真後ろ
に位置する本殿を望む。






境内は伽藍配置。






ungan5.jpg


さらに石段を山奥へ登ると、
高台に出て本殿ともいえる方丈。




ungan4.jpg









最上部の方丈から
仏殿や鐘楼を見下ろすと

それは山寺のアトモスフィアが広がる。




ungan2.jpg



ungan3.jpg








芭蕉は<おくのほそ道>で
雲巌寺訪問について
こう書いている。



<雲巌寺に行こうとすると、
 人々が自ら進んで誘い合い、

 多くの若い人が道中にぎやかに騒ぎ、
 気づけば山寺の麓に着いていた>。



和尚の山居跡に出向こうと
山道を進んでいたら、

芭蕉を慕う多くの人々が
共に歩を進めた、と。


そして

現代、車で行っても
エリア中心部から
かなり距離のある山奥にも関わらず、


"気づけば着いていた"と。



芭蕉の、当時の興奮ぶりが

手にとるように感じられるわけである。




まさにその世界観は、<ロッキー>。


タイトルマッチを控えて
早朝ランニングするロッキーの後を、


フィリー市民たちが追走。


ロッキー以下、多くの人々のランニングが
フィラデルフィア美術館前の
階段上で終了する


といったシチュエーションと、


芭蕉の雲巌寺詣での様相は

同じ

といえよう。





芭蕉と雲巌寺

は、


まさに

ロッキーとフィラデルフィアだった


と。







ungan10.jpg



そして
当たり前のように存在する


芭蕉の句碑。



ungan15.jpg











*****








日光から、

東北自動車道のICにもなっている<矢板>
そして<大田原>(現・大田原市)を経て
エリア<黒羽>に着いた芭蕉。



雲巌寺のみ、
黒羽エリアの中でも山奥遠くに位置する。


長期逗留した黒羽で、

雲巌寺以外はすべて、
訪れた箇所は近隣。




そもそも

このエリアの探訪主目的は
雲巌寺だったと思われるが、


それを実現させた背景には

<おくのほそ道>で
自身が記載したように

芭蕉にはこの地に知り合いがいた
ことが大きい。





芭蕉は書いている。




<那須の黒羽というところに
 知人がいるので、

 ここから那須野の原に足を踏み入れ、
 近道をして真っすぐに行くことにした>。




その知人は、桃雪。
そしてその弟・桃翠。

前者は黒羽城代家老にして俳人。


いずれも芭蕉の門弟。


己が門弟がいる黒羽。
そこで芭蕉が歓待されぬはずがなかった。




旅のセコンド・曽良はもとより、

黒羽では
門弟の桃雪、桃翠の他、

同地の多くの門弟が加わり、



まさに一大芭蕉軍団を形成しての

雲巌寺詣で

を実行したのだった。







エリア・ディテールとしての
那須の<黒羽>。


ディテール単独地としては
最長逗留期間となった


芭蕉滞在13泊14日。




壮絶この上ない。


<松島>でそれなら分かるが、

いくら素晴らしいとは言っても
<黒羽>にその逗留期間は
あり得ない。



しかし
それを<ロッキー&フィラデルフィア>
という構図を描いて考察すれば


頷くこともできるわけである。




いわば
自身を慕うシンパが多く存在したことで

四六時中<己が主役>ポジションに
立てたことで

気分を著しく良くした芭蕉だったからこそ



長期逗留だったのだ、と。









*****








このエリアでの記述は続く。

芭蕉は
先に掲載した記述の後に
こう続けている。




<日も暮れてしまった。

 農家で一夜を借り、
 夜が明けてまた野中を歩く。

 途中、野原に放し飼いの馬がいた。

 草を刈る男に
 馬を貸してくれるよう懇願したところ、

 田舎の百姓とはいえども
 なかなか温情的な人で、

 「どうしましょう…。

  馬を使わずに行くとしても
  この野原は旅人にとっては不慣れで歩きにくい。

  分かりました。心配だから、
  この馬で行って、止まったところで
  馬を放して返してください」

  といって貸してくれた>



と。





芭蕉が
借りた馬に股がり、


その隣では曾良が
行く先を指差している


スタチュが屹立する地が


この黒羽にある。







次の掲載で、それを取り上げたい。












:::::





ungan8.jpg




<雲巌寺>

JR那須塩原駅から車で約40分
拝観料無料。








長期逗留した那須・黒羽で

芭蕉は

これと同じ月を眺めたであろうか。





ungan9.jpg




















posted by damoshi at 21:35| おくのほそ道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

<逆・おくのほそ道>-3: 独眼竜・国宝霊廟






仙台藩のパイオニア・伊達"独眼竜"政宗の

霊廟が、瑞鳳殿。
菩提寺が、瑞鳳寺。


それはいわゆる独眼竜の霊屋。

ゆえに
それが在るエリアが<おたまや>である。




仙台駅から車で10分の市街地中心部に
それは在る。







*****





夏の旅先における
早朝の散歩。


それは熊本の通潤橋もそうだが、

清浄された
その日最初の空気と
朝霧や雨露が交錯する中での

暑くなる前の
やや涼しげなアトモスフィアと

ニッポンの古がフィットする。



そんな散歩のアトモスフィアに
この瑞鳳寺・瑞鳳殿は
合致する。



たとえば

ホテルのチェックアウト前の
早朝をゆっくりと歩く場所として
快適な場所となる。





メインとなる瑞鳳殿の本体は
いずれディープに取り上げるとして、


今回は
瑞鳳寺・瑞鳳殿のアトモスフィアが
感じられる部分で、


その一端を掲載する所存である。







*****






zuihou1.jpg



政宗ではなく"正宗"の字になる
<正宗山>たる瑞鳳寺。


そのエントランス。





zuihou2.jpg


深夜のうちに雨が降ると
古の様相は
さらにムードを増す。

夏の朝の日が差しはじめる。






瑞鳳寺から坂道を上る。

瑞鳳殿の本体へ向かうための
エントランスへ。




zuihou3.jpg





zuihou9.jpg



国宝・霊廟。





瑞鳳殿は、
仙台城本丸から南東へ900m。

三方向を広瀬川に囲まれた丘陵地が
経ヶ峯と称されている。


伊達政宗公の霊屋(おたまや)である
感仙殿、

二代目・忠宗公の霊屋である善応殿、

九代目・周宗公、十一代目・斉義公、
同夫人の墓所である妙雲界廟、

五代目・吉村公以降の
公子公女の墓所たる御子様御廟

などが配置されている。




いわば

ここは<伊達家の霊域>である。




それらのトータル・エリアが瑞鳳殿。





zuihou8.jpg



苔むした石垣、雨露したたる紫陽花、
早朝の日を受けて光り濡れる石段。


このアトモスフィアが良い。





zuihou7.jpg



まさに"私の城下町"的世界観の一端。

雨に濡れた石畳は、
乾いたそれより数段風流である。






zuihou4.jpg



zuihou5.jpg




瑞鳳殿のエントランス。
ここから本体へ入っていく。



瑞鳳殿そのものは、

辿り着くまでのアトモスフィアと
また別世界で、


"ダテ者"のハイカラ・正宗を忍び
当時の建築界の巨匠たちが集って建築。


日光東照宮と並ぶ

桃山様式の豪華絢爛な建築美を誇っている。


(本体はいずれ別途掲載)。









:::::






<瑞鳳殿>

観覧料550円。
仙台駅から車で約10分。
























posted by damoshi at 09:10| おくのほそ道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

<逆・おくのほそ道>-2: 国際派・政宗の本丸






伊達"独眼竜"政宗がいなかったら、

現在の仙台は存在しない
といっても過言ではない。

なぜならば、
政宗が"千代"だったこの地を
仙台と改めたからである。


政宗はまた、仙台藩の初代藩主。



先見の妙と共に
対海外視点のハイカラ性を
持っていた政宗は、

関ヶ原の戦いの二年後に
仙台城を完成させて
その翌年に入城した。


いわゆる
仙台城の本丸時代が
その時点でスタートする。




国際派・政宗は、

家康がキリシタンを禁じた頃合いにも
支倉常長や遣欧使節団を盛んに
メキシコや欧州に派遣して

対海外交易を目論む等
活発に活動した。

隠れキリシタンだったのではないか
とも言われている一方で、

外様の強者として
家康にも恐れられていたという。


鎖国した家康、海外と組もうとした政宗。





仮に
政宗がスペイン、そしてキリスト教との
タッグを成立させていれば、

家康打倒へ向かったか。




政宗に関しては、

対江戸、対家康、対幕府
という部分において

多くの
ヒストリカルな幻想と夢がある。



<もし〜だったならば>を
日本史として考える場合において


独眼竜vs.家康は、

夢の対決として
多くのイマジネーションを掻き立てて
やまない。





ハイカラな国際派という
イメージのある政宗を象徴するものが、

仙台城跡に屹立する政宗騎馬像。





masamune5.jpg




まさに

<俺が政宗、独眼竜>

と語っているようである。



馬の種類、そして全体ポスチャーからは、

ナポレオンのような
世界観がにじみ出ている。





そもそも強い力を持っていた
仙台伊達藩が、

常に江戸幕府から警戒されていたことは
知られるところだろう。


ここに
松尾芭蕉と<おくのほそ道>が
交錯する。


これも有名な、

松尾芭蕉スパイ説。



<おくのほそ道>は、
幕府からの命を受けた芭蕉の
報告書である

というもので、


芭蕉の最大の目的は

この仙台伊達藩を探ることだった
というものである。


それは、

旅の開始前に
あれだけ松島を思慕していながらも

実際には
芭蕉は松島で句を残していない点や

その地で
<瑞巌寺>に関しては
かなりディテールまで芭蕉は見ていた
ことからも説かれている。


瑞巌寺は、

伊達藩の"ペンタゴン"だったからこそ

芭蕉は
幕府の命を受けて
そこを詳細に渡って見学したのだろう

と。




これもまた

ヒストリカルな幻想と
夢の対決のモチーフである。




芭蕉自身は、那須に最も長く留まっている。

その地で
ある意味で無邪気に過ごした。

旧知の、且つリスペクトしている人の地に
赴くことができた意識昂揚と

そこで歓待されたことでの
素直な喜びが

芭蕉をして
無邪気な長逗留に至らしめたのではないか、と。


(その地へは明日ダモシは行く。
 そして別途、当欄にて掲載する)



<おくのほそ道>における

現・仙台エリアでの
芭蕉のクールさは、

やはり怪しい

と。






masamune4.jpg



当時
江戸に次ぐ大都市・仙台を
築き上げた手腕とパワーは、

やはりリスペクトに値する政宗。








masamune2.jpg



仙台城は、山城。

青葉山の丘陵に位置する。
高い位置にあるわけだ。

そのヴァリューが見直されたのは近年。

本丸石垣修復工事や
発掘調査などで、

ヒストリカル&カルチュラル性の高さが
再発見され、

五年前に国指定史跡となったようだ。





後日掲載する<江戸城>との比較で
考察するとまた楽しみが増えよう。








masamune8.jpg



青葉山。

仙台城本丸からは
仙台市街地を一望することができる。

屹立する政宗の騎馬像。

政宗が目を向ける方角は
もちろん市街地中心部。





masamune7.jpg






現在の<仙台城跡>は、

本丸
二の丸
三の丸
御裏林

各エリアで構成されている。





masamune3.jpg




本丸から見る仙台市街地中心部の一部。









<もし〜ならば>という

日本史における
幻想と夢の期待値が高い素材。


それが伊達政宗と松尾芭蕉という
カルチュラル・アイコン
ヒストリカル・アイコン
と交錯する存在の

ひとつが、


仙台城


であるといえよう。





仙台に来たら
ここを訪れずには帰れない。

ティピカル中のティピカルではあるが、
そう断言できる場所である。






政宗を
様々な角度から見る。

同時に
<もし〜ならば>を思慕する。


そうすることで、

いわゆるシンプルな
先人の銅像ではあっても、

ただ見るだけではなく
何かを自身の中で得て
旅先の地を後にすることができる。







masamune6.jpg








最後に、


距離的にも角度的にも
もっとも政宗と"目が合う"構図を。




masamune1.jpg







鎖国した戦国武将より、


ダモシが
独眼竜を好きなのは言うまでもない。




そもそもダモシは
家康や秀吉などは好きではない。








:::::







<仙台城(通称・青葉城)>


仙台駅から車で約10分。
本丸駐車場(400円/hour)から徒歩約二分で
政宗騎馬像に着く。














posted by damoshi at 02:02| おくのほそ道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

<逆・おくのほそ道>-1: 仙台




<おくのほそ道>で
芭蕉が訪れた仙台は、

仙台城、亀岡八幡宮など多々ある。


早朝、白石を発ち
夕方に仙台入りしていた芭蕉。

<おくのほそ道>にも
広瀬川や名取川橋、長町、国分町など
現在も存在する地名が登場する。

長町はインターチェンジがあり、
仙台中心部から松島へ高速で向かう場合に
長町から仙台南部道路に乗り
仙台東部道路を経て三陸自動車道に入り、

一路
松島を目指すことになる。


(長町ICから松島までは約20分。
 国道で仙台中心部から松島は約一時間)。




ダモシ軍団の
今回の旅<逆・おくのほそ道>行程の
第一陣メインが、その仙台である。







*****







仙台市中心部・青葉区に
"おたまや"というエリアがある。

漢字で書くと、<霊屋>。

その名を冠した
橋、幼稚園、ホテル、旅館などが
存在する。


ビジネス・ディストリクトと
住宅街の抜け道にも当たる
このエリアは、

ダモシも驚く交通量。

宿の駐車場は
まさにその抜け道沿いであることで
入出庫や、歩く際にも難儀した。


しかし旅の足先としての
ロケーションは良く、

仙台駅周辺までは車で10分、
独眼竜・政宗の本丸である
青葉城こと仙台城へは同じく5分、

そして
独眼竜の菩提寺とお墓である
瑞鳳寺・瑞鳳殿へは徒歩3分圏内と

至便である。



たまたま
猫同伴可能の宿が存在していたのが
その霊屋エリアだったわけだが、


仙台城をはじめ

同じく近隣にある
八木山動物公園など、


ダモシの幼児期(幼稚園時代)に
遠足などで足を向けた場所へ
再び出かけることができたわけである。



仙台城は

17歳の夏休みに
東京から友達を連れて
グランマの家に遊びに来た際に訪問して以来、

25年ぶり。



25年ぶりに独眼竜・政宗との再会を果たした。



そして瑞鳳寺と瑞鳳殿は
さらに遠い昔に訪れて以来。


仙台駅と中心部は
今年の三月以来。



いずれにせよ、

ダモシの10年ぶりのニッポン復帰において

・昨秋のダモフィーロ
・今年三月のグランマ葬儀



立て続けに

<土>仙台とは逢っているという
不思議が発生しているわけである。




仙台を、単独ドライブで走るのは初めて。

昨秋は、
東北自動車道のIC入口まで
Older Brother格の叔父に伴走してもらっていた。


今回は

青森から仙台へ高速を走り
仙台宮城ICを下りてから宿まで

そして
松島と仙台の往復など


例の"ナビなし"ダモシは

初めて単独ドライブする仙台を
相変わらずナビなし&地図なしで爆走し

事なきを得た、と。





とにかく仙台は
その中心部領域が広域であり、

車の交通量も人も多い。

その活気は
北の首都・札幌の比ではない。


さすがにニッポンにおける
東京・大阪・名古屋・福岡と共に
四大都市を形成しているほどに、


ある意味で
不慣れなドライバーにとっては

"走りにくい"ほどであった。


この一年、
死んでいる国の都市や町や村を
多く見てきたから、

ニューヨークと東京を基軸とする
都会派ダモシとしては

仙台の活気は、安心感を覚えた。



ニッポンの四大都市では
大阪も住んだ。
名古屋も親が転勤で住んでいたことで
ダモシも長期滞在を何度もして
街中を歩いた。

仙台は住んだ。

残るは福岡。

一般的に"評判の良い"福岡の地を
旅で踏むのはいつになるのか、

あるいは縁がないか。


とにかくニッポンの大都市で
現時点で未踏は福岡となる。








*****






仙台の道路。


北の国で頻繁に見られた
曲がる直前で
ウィンカーを出してブレーキを踏むという
迷惑千万な世間知らずドライビングや
トロトロトロトロおたんこなすドライビングは
仙台では見られず、

誰もが

"ちゃんと"

"普通に"

後続車を意識して
右左折の際のウィンカー表示とブレーキ踏みを
タイミング良く行っていた点も、


<あぁ、これで良いのだよ。これが当たり前>

と安堵を得たわけである。







*****






仙台もまた一朝一夕で
切り取ることができないほど
膨大なネタがある。



今後も随時
特集等でディープに掘り下げていくが、


まずは今回は、

■青葉城(仙台城)
■瑞鳳寺と瑞鳳殿(の一部)

のアウトラインをこの後掲載するとして、

当欄では
この寄稿で触れた
"仙台"の一部の関連写真を
掲載する所存である。







杜の都は、仙台。

ダモシにとっては<土>である。


訪問は
昨秋の15年ぶりを経て、

この八ヶ月間で三度目。

居住していた幼稚園児以来では、
通算で十数度目。




車で、
東京へは約四時間。
那須へはダモシ・ドライビングで一時間十五分。
青森からは約三時間半〜四時間。





間もなく、そこは<七夕>。








:::::







sendai1.jpg




広範囲に及ぶ中心部市街地。

どの大通りも車で溢れている。





sendai2.jpg


仙台駅の一景。

駅前には、
三月に掲載した
例の<タクシーの強烈なる行列>がある。


仙台駅前のタクシー行列の異様さは、
先般
全国ネットのニュースでも取り上げられていた。





sendai4.jpg


夜霧の仙台と広瀬川。

宿から遠望も、
夜霧に包まれてビル群は見えない。







sendai3.jpg




仙台といえば

ずんだ餅と牛タン。


三月には松島で、

四月には東京で
仙台から送られたそれを、

そして今回は
塩竈エリアの国道沿いと
東北自動車道SA内に出店されていた
牛タン店のそれらを食した。



ずんだ餅と牛タンは、
好物中の好物の一つである。


写真は、牛タンと麦飯の丼。



















posted by damoshi at 00:10| おくのほそ道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月18日

<逆・おくのほそ道>-0: ふたたび、松島






この三月に、
二代目ダモログとダモシ・ドットコムで
ディープにフィーチャーした<松島>。


グランマを散骨した地でもある。


ダモシの中では
別格のニューヨークなど以外では、

松島は特別な地となった。



当時も記載したが、
短絡的に
ひとことで<松島>と片付けることができぬほどの

多角的な眺望。


それらと、

異なる季節に天候、時間が
加わることで得られる
多種多様な奇観・壮観の妙は、

スペクタクルでもあり

ワビサビの世界観でもあり

粋でもある

と。




且つ

単なる島と松の木だけではなく

ニッポンのヒストリー、宗教的裏づけを
内包する国宝・重要文化財の数々。



それらを俯瞰しての<松島>。



日本三景の枠に留まらない

スペシャルな地である、と。





松島未体験のワイフとジュニアを
どうしても連れていきたい
という希望を、


今回の旅である

<逆・おくのほそ道>にて敢行。



俯瞰した意味での<松島>の詳細は
二代目ダモログとダモシ・ドットコムに
今年の三月掲載したため

今回は省略し、


<松島>最新写真から

三月には掲載していない構図や
異なる様相を掲載したいところである。





今回の旅<逆・おくのほそ道>では、

既載の通り

芭蕉自身ディープな滞在をした
那須から

複数お届けする予定である。








*****






matsushimaagain15.jpg



<日本三景の碑>。

林春斉による日本三景(1643年)。

"松島(仙台)・天橋立(京都)・宮島(広島)は
日本三景である"

の碑。






芭蕉が雄島上陸後、最初に詣でた場所が瑞巌寺。

円通院と共に
重要文化財・国宝を多数抱える異空間。


その界隈から数枚。

奥ゆかしさはもとより

"粋"を感じさせる。




matsushimaagain16.jpg


甘味処の外。



matsushimaagain5.jpg


日光を思わせる杉並木は、瑞巌寺の参道。




matsushimaagain2.jpg


matsushimaagain3.jpg


過剰装飾も、よけいなアピールも存在しない。

且つ、寂れていない。

観光地の見本。




matsushimaagain4.jpg






*****






現世と来世の分水嶺が、雄島。


死して、天国へ行く際に渡る橋が、
渡月橋。



白砂の松島海岸に近い島で、

芭蕉はここから松島に上陸した。




matsishimaagain12.jpg








*****






ダモシがグランマの散骨をした島が
福浦島。


島へ渡るには、長い朱塗りの橋を渡る。

五大堂へ向かう"透かし橋"の上から
それを遠望する。



matsushimaagain14.jpg






*****





五大堂。

ここも三月にディープに取り上げた。

写真家・土門拳はかつて
珍しい"雪の"五大堂をB&Wフィルムに収めた。

それと同じ構図と、
さらに寄った構図の二枚を。



matsushimaagain6.jpg



matsushimaagain10.jpg








*****







そして、いわゆる<松島>。



ダモシの場合は
三月もそうだったが、


三陸自動車道側から下り坂を進んでくると
視界に入る松島の構図が好きである。


(一般的には、
 松島群と同じ目線に当たる
 道路の下側:仙台側からの国道
 からここを訪れるケースも多い)。


走行中のため見逃しがちだが、
あえて一気に松島間近(松島海岸駅前)へ
急がずに、

道路走行中に
下り坂で視界に突如現れる松島の構図に
目を留めたい。



三月にも同じ絵を掲載した。

ワイフはそれを目にしていた。

今回、
下り坂に差し掛かり
その光景が広がった瞬間、

ワイフは車中で言った。




<ああ、あの写真と同じだ>

と。


<この光景が好きだという意味が分かった>

と。




松島を取り上げたメディアでは
なかなか出てこない光景が

"下り坂で突如視界に広がる松島"である。




matsushimaagain1.jpg







*****






さらに松島。

いわゆる松島を。


むろん、
ダモシが撮った中の
ほんの一部である上に、

ダモシが目にしていない多くのそれを除き
ダモシが目にした数少ない松島景の
ほんの一部に過ぎない。




matsushimaagain8.jpg



matsushimaagain9.jpg


今宵は
ものの見事に、

霧が
じわじわと濃くなっていった。

時間を追うごとに
ボディブローのように深くなってきた霧。

やがて島全体を隠した。



その霧は今宵、仙台中心部を覆った。


実に見事なミスティーク的世界観。





matsushimaagain13.jpg








*****






最後に

同エリア内を歩く
ワイフ&ジュニアの後ろ姿を。



matsushimaagain11.jpg








松島は、生涯三度とも日帰りである。

しかしここはまず、

宿泊して
じっくりとゆっくりと全体を歩きたい。


お金をかけず、

ただただじっくりと見て感じ、
ゆっくりと歩く。


それをすべき地であり、

また
それを可能とする地である。







ダモシにとって松島は

スペシャルである。



忌憚なく、松島が大好きである。



































posted by damoshi at 01:04| おくのほそ道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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