2008年10月30日

加筆改訂版:武蔵野<三鷹>と太宰治。太宰の自殺癖考察









二代目ダモログに掲載した

太宰治ゆかりの
三鷹散策に


大きく加筆した上で


改訂版として掲載する次第である。











*****







太宰治の

ある意味でホーム、

そして
終焉の地。



それが東京の三鷹である。


吉祥寺と共に
<武蔵野>に属する
カルチュラル・エリア。



JR中央線という括りで

中野、阿佐ヶ谷、高円寺、荻窪、西荻


並べれば


ニッポン・サブカルの

いわば殿堂。












*****








太宰治と三鷹の一端を


歩く。








dz7.jpg





スタートは、三鷹駅南口。
駅前はロータリーになっている。





地上へ降りて左手すぐに
遊歩道のスタート地点があり、
その脇を


太宰が

愛人・山崎富栄と
入水自殺した

<玉川上水>が流れている。

当時を知る人によれば
<ものすごい水流だった>
という玉川上水は、
歩道からかなり下にある。


現在では水の量も流れも
ほとんどなく、

<これで死ねるか?>

と思うが、


その水路までの
陸地からの高低差が、

当時の
語られているところの水流への
想像と重なって、

<ああ、なるほど>といった理解を与える。



先に掲載した
五反田で取り上げた雑誌にも


当時を知る人の声として



<水深がかなり深く、

 (中略)

 人喰い川と呼ばれていた>


と語られているし、




ダモシの
ベスト・フレンドの一人の
女性で


吉祥寺ネイティヴの人も


同じことを言っていた。







dz5.jpg




玉川上水。
この左手の、かなり下で水が流れている。



高低差が激しく、



"すり鉢状になっている"

という

先人の語りに頷く
ポスチャーになっている。


今でも、


覗き込まねば見えないほどだ。









*****









玉川上水への
入水自殺を遂げた
太宰治の

記念碑ともつかぬ何かが、ある。



愛人と自殺した
太宰に

その場所に
記念碑が建つことなどは

ファミリーにとっては
到底許すまじきことであったろう。


ゆえにか、

この場所に記念碑を探したが
見当たらなかった。


その代わりににあったものが、こちら。




dz3.jpg




<玉鹿石(ぎょっかせき)>。



太宰の故郷である
青森は津軽産の、石である。


それを使用した記念碑ともいえぬ
<碑>がひっそりと路上に佇んでいた。











*****










そのストリートにはその他、



<路傍の石>の作家

山本有三氏の家もある。



実際の"路傍の石"もある

(二代目ダオログで掲載。
 適宜再録)。



<風の散歩道>たる

玉川上水沿いの

ストリート散策を終えて
三鷹駅南口へ戻る。







dz2.jpg





太宰の愛人となり、
最後にともに入水心中する
山崎富栄が働いていたという
ミタカ美粧院の跡地。

それが現在の
三鷹駅南口を出てすぐの
CORALビル。












太宰と山崎が知り合ったのは、
昭和22年といわれている。



その他この三鷹には

太宰が行きつけにしていて
その二階の部屋を
仕事部屋としていた小料理屋
<千草>の跡地(記念碑)や、

その向かいにある
山崎が下宿していた家もある。





太宰は
<千草>で飲んで、

そのまま向かいの家の二階に住む
山崎の部屋を訪れて

関係を重ねていたらしい。





入水へも

その部屋からともに向かった、と。





数寄屋造りの建造物
<みたか井心亭>や
その向いの太宰邸跡、

当時のままの
三鷹陸橋などなど

ゆかりの場所には枚挙にいとまがない。





これらは

いずれ改めてフィーチャーしたい。










*****











三鷹に死した太宰治。




その墓地も三鷹にある。


太宰の願い通り
森鴎外の墓と向かい合う。





禅林寺。





dz1.jpg






三鷹駅南口から一直線に伸びる
商店街の目抜き通りたる
中央通り、


あるいは

その隣の禅林寺通りを
直進すること

約一キロ弱。



禅林寺と
その境内に墓地がある。







<太宰と森のお墓はコチラ>

と書かれた案内看板は、

力道山の
お墓参りをした際と同様に

分かりやすく場所を示す。




それにしたがい墓地内を歩むと、

奥の方に

まずは
<森林太郎>という墓石が目立つ。






dz4.jpg






それとほぼ向かい合う形で

<太宰治>
と書かれた墓石が鎮座ましましている。






dz6.jpg







<おお、ここか…>。




太宰のそれに

神妙に手を合わせた。




そして

太宰よろしく黒マントならぬ

黒コートのポケットから

マルボロを取り出して、

それを一本、墓前に置いた。





dz8.jpg







ちなみにこの禅林寺。

事務所と書かれた場所があり
そこへ向かい
自動ドアを入っていくと、

そのすぐ左手にガラスケースがある。


その中には、
太宰の台詞付き色紙や
森鴎外の遺言(コピー)など

ちょっとした
グッズも販売されているから、

文学ファン、太宰ファンは
一度足を運ばれてはいかがだろうか。

それでなくとも
三鷹や吉祥寺は
サブカルのメッカ<中央線>である。



昔の雑貨を扱う店や

奥ゆかしくも
カルチュラルな古本屋などが多く、

散策していても飽きない。






お勧め、である。













*****












それにしても


太宰の愛人・山崎が
美容師(?)なのかは分からぬが、

美粧院に勤めていたとは
知らなかった。





親も

もともと
そういった関係の仕事であったらしい。




ダモシ所蔵の、

昭和四十二年刊行
<現代日本文学館/太宰治>
の解説をひも解いてみる。






太宰と山崎は、

昭和22年の<春>に出逢っている。


同時に

その頃、太宰は本妻との間に
次女が誕生している。


翌年の、
西暦でいうところの
1948年には
<人間失格>を完成させたが、

太宰は体調を崩す。





五月には
体調不良は著しく不眠症に。

そして、喀血。

その一か月後の六月十三日。
太宰は山崎と
玉川上水に入水心中をした、と。



遺体の発見は

遅れに遅れて
その六日後の十九日。



さらにその一か月後の
七月十八日に、
前述の禅林寺に葬られた。


というのが全体の流れである。











*****











<知り合って一年ちょっと>

で心中しているわけであるが、



これは
男と愛人ならば
おおいに考えられる頃合い
ともいえるのではないか。


愛人関係は
長くなればなるほど

それこそ
文字通り<斜陽>になってゆく。







愛人たる女としては

ある意味で

その不倫関係の絶頂期に
男を奪いきったといえる
最高の形が

<心中>


といえるやもしれぬ、と


ひとつには、考えるところである。










それにしても

太宰の山崎

有島武郎の波多野秋子

など、


常に
男側に美しさを感じず

<人間失格>的で
女に翻弄された感のある
しょっぱいポスチャーを感じ得るが、

女の側に興味がそそられるのは、

ある意味で
女の"ひとつの"最高を
彼女らが獲得して

さっと
散ったと感じられる
そのポスチャーに
起因しているのやもしれぬな

と、

太宰の墓を見て感じるところである。







特に、


太宰治は


厳しくいえば



<ショッパイ男>の

典型であったともいえる。





なぜならば、

その自殺癖はともかく、



いずれの自殺

(太宰言うところの
 "海へはいった")


では、



失敗を繰り返し


あろうことか

連れの女性のみが
死んで


己は生き残る


という



最悪の結果をもたらしている

からである。






<心中しといて、

 お前も死なんかい!>


と怒声が飛んでも

おかしくはない、と。





十八歳で
地元・青森の芸妓(初代)と出逢い、
逢瀬を重ねているピリオドに、

まず1929年に
カルモチンで自殺を図るも失敗。




30年。
初代という恋仲の女がいながらも、

ちょっとした不在の間に、
銀座のバアの女給仕(シメ子:19歳)と

鎌倉を舞台に

またカルモチン。


最悪にも太宰は助かり、
シメ子のみ死去。


犯罪では?

と疑いを覚えるがいかがか。



しかも
その直後に、初代とまたヨリを戻して

翌年には

例の<五反田>で
ハニームーン生活を
スタートさせている。



ヒドい男だ。





この間、大学にはほとんど行っていない。




35年、

そのせいで
大学卒業はほぼ不能となった上に

就職試験にも落ちて

絶望した太宰は

三たび自殺を図るも、三たび失敗。

その舞台はまたも鎌倉。



なにをしとるのか、と。



同年、

東京帝大から
授業料未納で退学処分を受けて

また

おそらくションボリしたか。




36年には病に倒れ、

その間、

妻の初代は不貞を侵す。




・大学除籍
・芥川賞落選
・初代の不貞
・自身の病


が重なったからなのか、



37年、

今度は群馬の谷川(=水上温泉)


四度目の自殺トライは
またカルモチン。


芸がない。

失敗から学んでいない。



否、

違う。


既に太宰は
カルモチンでの自殺に
二度失敗している。


どの程度であれば

死なずに済むかは

分かっていたはずだ。



逆に

絶対に死にたいなら

前二回の
教訓を生かして


今度こそ成功させられるであろう。



だが、

このときも失敗している。



このときの
自殺(心中)相手は、


なんと初代である。



これはもしかしたら、

太宰が殺人を仕組んだ

とも考えられまいか?



あくまでも

可能性として、である。




いずれにせよ

四度目も

太宰は助かり、

このときは
相手の初代も助かっている。



ヘンな心中もしくは

陰謀。




帰京後、二人は別離。

太宰はアホか、と。


五反田ではなく、

太宰が、アホか、と。







しかも

その翌年には

すぐにも

石原美知子との結婚へ

思いを馳せている太宰。





39年頭、
甲府(山梨)で美知子と結婚。


その年の秋、

三鷹へ転居。


三鷹の時代は

戦争をはさむものの

ファミリーでの
平穏な幸せの時代と
考えられてもしかるべき

だったのに太宰は、



太田静子を愛人とし

子も授かる(47年)。




さらに

その47年に

山崎富栄と出逢い

逢瀬を重ねている。





ほとほと、困った男だ。







そういう数々の行為の

罰が当たったのか、


48年の太宰は
終末感が漂い、


ついには喀血。

不眠、そしてまた喀血。






<もはや、これまで>


と己自身で思ったのか、




山崎富栄とともに

"人喰い川"たる

玉川上水に入水して、




ある意味での満願を


成就した、と。







妻・美智子は

1997年に亡くなり、


太宰と同じ

禅林寺に葬られた。






こうして他人が経緯だけ見れば、

太宰は
ヒドい男だ

ということになろう。




太田静子にとっても

実際は
ヒドい男だったのかもしれない。





だが、


一つには




それぞれの女性が

太宰を愛した or

at least 好いた

ことは間違いないだろう。






成し遂げた偉業は別として、



ある意味で

男は

ショッパイ方が、



母性本能をくすぐるのかもしれない





ちらっと考える上では、




太宰治は

良い考察材料と




思える次第である。










:::::



<三鷹と太宰>

JR中央線・快速利用
新宿→三鷹=18分。

<玉川上水>
三鷹駅南口下車、徒歩数分
<禅林寺>
三鷹駅南口下車、徒歩約15分










posted by damoshi at 00:58| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月08日

猛暑と真冬のMISHIMA







今宵の東京は、

この夏はじめての
オフィシャルな<猛暑日>
だったようである。



たしかに暑かった。

そして
昨日までよりも
オフィシャル案件が終わってからの
帰路で、

暑さによる疲れも感じた。




そんな中、

ある駅構内で
このようなフリーペーパーが
目に止まった。




adagio.jpg



中央公論と読売が出している
メディアである。


これが三島由紀夫でなければ、

目に止まらなかったかもしれない。



好き嫌いは別として
三島のポスチャーは、

画像的にも映像的にも
ワード的にも


キャッチーで、


相対的に
人の目を捉える。



むろんその背景には
三島の最期の鮮烈さや
生前のアジテーションがあるわけだが、


それを差し引いても

ヴィジュアルとして

三島は

十二分なアイ・キャッチを得るだけの
パワーとオーラがある。



いわば、三島は煽動的ともいえるわけである。






このフリーペーパーの
今回のメインが、


<三島由紀夫と馬込を歩く>

というもので、


まさにダモシが
旧ダモシ公式サイトにも
掲載していたように、


2006年頭の
ニューヨークからの<東京出征>時に

足を向けたものと同じである。





だが、
その内容は
ダモシの期待に反し


<〜〜〜歩く>というテーマを
設定した割には、


本題たる

馬込文士村などの紹介が乏しく、



アリ素材で
三島を軽く振り返っているに過ぎない
ものであった。




ゆえに


ダモシ自身がかつてそこを歩き、

そして
ウェブ上にまとめたものを、


ここに改めて掲載して
そのストレスから脱したいと
考えた次第である。










*****









東京・大田区。



JR大森駅西口を降り、
左手を見ると牛丼チェーン店・松屋がある。


その二階にひっそりと佇むのが
大森倶楽部。


大森倶楽部を
<馬込文士村>散策のエントランスとしたい。


ここで係員から説明を受け、

200円にしては大変貴重な
104ページの小冊子
<馬込文士村ガイドブック>を入手する。




0mishima10.jpg


文士村散策のためのマップなど
親切な対応がすばらしい。



そして
駅西口の向い側にある階段を上がることから、


ガイドブックと地図を手に、
散策の旅はスタートする。





これが文字通り

<(文学と)馬込を歩く>

というテーマに則る展開といえるわけである。








0mishima9.jpg



その階段下に
<文士村散策のみち>の開始を告げる
案内板が立っている。





0mishima8.jpg


そして階段を上がる前に、
来訪者を歓迎するかのように
文士たちのレリーフが立つ。






要するに
<文士村>とは、山王・馬込地区一帯に
居を構えた文士や芸術家たち
ゆかりの地を散策するコースのことで、



正しくは

三島由紀夫邸は
この中には含まれていないが、

このエリアの中にそれがあることから、

文士村散策プラス三島邸を
表敬訪問するファンが後を断たない。



そんな場所ということである。




ゆっくりと時間をかけて歩き、

日本の文士や芸術家たちが愛した町並みや
ゆかりの地を散策する愉しみがある。











*****









■周辺スポットと文士村の主な文士・芸術家■


大森貝塚
富岡美術館
新井宿義民六人衆の墓
弥生人が住んでいた場所
熊谷恒子記念館
赤毛のアン記念館
川端龍子記念館



徳富蘇峰
北原白秋
山本周五郎
室生犀星
三好達治
宇野千代
稲垣足穂
川端康成









*****








JR大森駅からのぼりくだりを経て
歩くこと約20分。


環七を渡ると馬込地区に移行する。


馬込に入り
大きな公園である
大倉山公園を通り抜けて
右近坂をのぼり切ると、

臼田坂という大通りへ出る。


ここを右手に進み
住宅街の中に入ると、

衣巻省三の住処と、

そしていよいよ稲垣足穂が登場し、

その近所にある三島由紀夫邸に到着する。




むろん
三島邸目当てではない場合は、
コースは異なる。


そしてさらに時間をかけて
文士村すべてを回ることも可能である。





大正末期から
文学活動をはじめた衣巻省三は、
モダン&ハイカラ路線を象徴する人物でもあった。


芥川賞の第一回候補にもなっている。


その衣巻は実家が裕福だったことから、
この地区でも貧乏生活を知らぬ
唯一の文士だったともいわれている。

貧乏を知らないお坊っちゃん
であったことがモダン&ハイカラ路線を
つづけることができた要因か。





そしてその路線を象徴する事象
として自宅アトリエでダンス・パーティ
などを開いて社交の場を設けていた
ことが挙げられる。


宇野千代や川端夫人、
室生犀星らが招かれたそれは、
馬込のダンス流行の震源地とも言われていた。





<馬込のモダンボーイ>
と呼ばれていたのが、小説家の稲垣足穂だ。

ここに居を構えていた
衣巻の家に転がり込んで、
馬込を拠点とした稲垣。



そしてその稲垣が住む衣巻の家と
至近に居を構えていた

三島由紀夫。







稲垣と三島の微妙な関係は、
三島自身も過去に語っている。




<稲垣さんという人はテレ性ですからね。

 僕がほめればほめるほど僕の悪口を言う>


(「日本の文学」70年6月)








三島が邸宅を左に進み、
中心地へ出かけるべく下りたと思われる坂。

その坂下でちょうど
衣巻の家から連なる道とぶつかる。




三島が

<お目にかかりたくないんです>
と語った稲垣と、

イヤでも
偶然に顔を合わせたことがあるのではないか。



そんな想像をめぐらせることができる坂と、
そこにぶつかる小道である。






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衣巻省三と稲垣足穂の碑が立つ一角。




0mishima6.jpg


三島邸のある高台から下る坂と、
坂の下でぶつかる小道。










そして、三島邸。



いずれにせよダモシは
ここを訪れたかった。


表敬訪問したかった。





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かつて篠山紀信が
写真に収めた三島邸の、門。




0mishima1.jpg

壁には三島由紀夫の表札。



写真の中央の庭に、
三島邸のシンボルといえるアポロ像がある。

写真にも映っているが、
この大きさでは見えない。



0mishima4.jpg


ガレージ。





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インターフォン。

その下の表札には、
三島の本名が書かれてある


0mishima3.jpg



"平岡"邸前で佇むダモシ。








*****








三島邸を後にして臼田坂を下ってゆく。


臼田坂下で右折すると
日本画家・川端龍子が自ら手掛けた
タツノオトシゴ形をした建築物、
川端龍子記念館という美術館がある
(入場料:大人200円/16:30まで)。





この付近まで来ると

佐伯栄養専門学校が高台にあり、

それを囲む広大な森林から
大量のカラスの鳴声が聞こえてくる
無気味さを漂わせている。




しかし春になると
90本もの桜が並ぶ
桜並木と桜並木公園で心は洗われるそうである。



そこを抜けてから約15分。



<池上本門寺>

の、五重の塔が視界に入ってくる。







こうして散策は、<池上本門寺>

へと流れていく。




<池上本門寺>に眠っているのは誰か。





力道山




である。







(力道山と池上本門寺は、別途掲載)。










:::::






<馬込文士村>


公式サイトは、

http://www.magome-bunshimura.jp/



このサイトに
公式なルートが書かれているが、

それには
三島邸も池上本門寺も含まれない。



だが、
この文士村めぐりと三島邸、池上本門寺は

ダモシ推奨の徒歩圏
カルチュラル散策ルートである。





新宿や渋谷などからは
JR利用で大井町経由→大森へ。
約20〜30分。

田園都市線ラインでは
二子玉川から
東急大井町線・大井町経由→大森へ。
約25分。




















posted by damoshi at 20:13| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月06日

牧水と小枝子が泊まったのはどこなのか:百草園









ダモシが
奇妙なシンパシィを覚える存在。

そのひとりに、若山牧水がいる。


行動形態に
共通する何かを感じるのである。







*****







まずは
宮崎県東臼杵郡の坪谷という地で
生まれた牧水の、

<旅>と<転居ムーヴィング>、
そのレジメを紐解いてみたい。


1904年、

牧水十九歳で
早稲田大学に入学して以降をその対象とした。



1904年:
早稲田大学へ入学。
ここで東京にムーヴィング。生涯通算五度目の転居。

1905年と1906年は
それぞれ現代の大学生に等しく
実家(坪谷)へ帰省の旅に留まる。

牧水のムーヴィングと旅が
本格化するのは1907年からである。

その傾向は
下記にまとめてみるが、顕著である。



その背景のひとつには
或る女との出逢いが存在している。

それが当欄の主題でもあるが、
牧水が熱烈な恋路を走り
やがて破局する<園田小枝子>とのロマンスである
(後述)。







*****







1907年:
問題の<園田小枝子>と邂逅。

この年も実家に帰省した牧水だが
例年と異なるのは
その前後に旅を付け加えていることである。

坪谷への帰省旅行の往路で
岡山・広島などをメインとする
<中国地方への旅>を行う。

そして復路ともいえる坪谷到着後は
同じ宮崎県内だが
<サウス宮崎の旅〜油井その他>へ出かけた。

再び上京した牧水。
小枝子も上京。
東京家政大学に通っていたとされている。

東京で再び逢瀬の牧水と小枝子は
武蔵野エリアを散策デート等をする。

年末には千葉白浜・根本海岸へ宿泊旅行を敢行。
いわゆる"しっぽり旅行"である。

まさに牧水と小枝子の恋の炎は、燃え滾っていた。



1908年:
小枝子との恋路の炎はさらに燃える。
牧水は、東京に居続ける小枝子と逢瀬を重ねる。

前年末の千葉につづき
この年の春には"或る場所"を二人で訪れて
宿泊旅行を楽しんでいる。

その後、
牧水は<軽井沢旅行>を楽しみ
復路で<碓井峠越え>を果たして東京に戻ってきた。

いわゆるこの旅は
その夏に早稲田を出ていることから、
現代でいうところの"卒業旅行"と考えられる。

年の瀬迫る頃合い、
牧水は新宿区若松町に転居ムーヴィング。
この家での小枝子との結婚生活を夢見た。



1909年:

自身のメディア創刊という夢を抱いていたが、
資金不足に喘ぎ実現へままならずにいたと同時に
小枝子との結婚を考えていた牧水は、
柄にもなく"就職"を決意。
大卒後はじめて社会人になる。

だが根本的にサラリーマンは合わなかったか牧水、
就職した新聞社をわずか五ヶ月で退社。

苦悶の牧水は、千葉・布良海岸へ旅をする。

さらには
なかなか願望通りに事が進まない
小枝子との恋路を思慕して

かつてふたりで訪れた"或る場所"へひとりで訪れる。




1910年:

小枝子との関係がドラマティックに動き出す。

苦悩の中で牧水は
<さすらいの旅〜長野・山梨>へ向かう。

途中、体調を崩して長野・小諸市で
ドクターにかかる。

そこへ<女児を出産した小枝子>が現れ、
翌朝にはまた消える。

ここで何があったのか。

また旅先でひとりになった牧水だが
気丈にその後、鹿沢温泉へ出かけた。




1911年:

ついにこの年、
牧水と小枝子の五年に及ぶ
ハニームーン期が終わりを迎える。

小枝子、東京を去り国へ帰る。
小枝子は人妻だった。


牧水は書簡で
<頭がぐらぐらする…>と
そのショックのほどを滲ませる。


しかしながらその一方で牧水はこの年、
デスティニーたる女性と出逢う。

失恋の痛手が半年も経たぬうちに、
太田喜志子と恋に落ちる。

以降、牧水の熱烈なプロポーズ大作戦。



この年は
女性との別離と出逢いが重なり
忙しかったのか、旅に出た様子はない。




1912年:

この年も牧水にとってエポックであり、忙しい。

喜志子へのプロポーズと結婚。
友人・石川啄木の死に水をとり、
さらには
実父が病に倒れて死去。

それだけではない。

自身のメディア(雑誌)を創刊して
事業を開始するが
創刊第一号だけで資金が底をついて廃刊。


・結婚
・父の死
・友人の死
・事業立ち上げと失敗

と大きなエポックが重なりも重なった。

さぞかし旅行どころではなかったろう
と想像するがしかし、
しっかり旅をしていた牧水。

・長野旅行
・三浦半島旅行

の他、実家と東京の行き来をした。


しかし
事業を立ち上げたは良いが、
メディアが一号だけで廃刊したとはなにごとか。

よほど事業計画が杜撰だったのであろうか。





1913年:
運気が盛り返した牧水。

年初、<九州地方の旅>に出る。

春にはまた九州にやってきて
宮崎・美々海岸で友達と戯れる。

四月、長野へ。ここで長男が誕生。
名を"旅人"と付ける。

梅雨の頃合い、
東京に戻って一家揃っての生活がはじまる。

勢いに乗る牧水は
前年破綻したメディアを再創刊。
どこにそんな資金があったのか。



1914年:
しかしながら、やはり失敗。

経営は行き詰まり
メディアは年末に他誌に吸収される。


1915-1916年:
神奈川県三浦に転居ムーヴィング。
長女、誕生。

<東北地方の旅>を経て
また東京に転居カムバック。
今度は小石川に居を構える。

通算七度目の転居ムーヴィング。



1917年:

懲りもせず牧水は、
吸収されたメディアを単発で復活刊行させる。
ものすごいヴァイタリティである。


1918年:

この頃から牧水は旅を活発化させていく。

・鎌倉
・沼津
・土肥温泉

と旅を連発。

さらには次女誕生直後から
<関西地方の旅>に出た牧水。

既に長男と長女がいて未だ小さい上に
今度はベイビーである。

喜志子の育児の大変さを考えたら
そうそう旅に出られるものでもないと考えるが、
牧水は出かけている。

寅さん、か。




1919年:

米国では
シカゴ・ホワイトソックスのメンバーによる
ワールド・シリーズでの八百長事件
<ブラックソックス事件>が勃発。

その頃の牧水は温泉が趣味になったのか
温泉旅行を連発している。

・浅間温泉の旅
・軽井沢/星野温泉の旅

で湯につかった牧水。

しかも紀行文<比叡と熊野>を発行している。
やはり、ただ者ではない。




1920年:
牧水の温泉フィーバーは加速。

今度は
<天城越えの旅>を経て
湯が島温泉で湯に浸かる。

たっぷり英気を養ったのか、
また転居ムーヴィングで
今度は静岡県沼津市へ通算八度目の転居。



1921年:
次男"富士人"、誕生。
それでもまた育児を喜志子に任せて旅に出る牧水。

・長野の白骨温泉
・上高地
・<飛騨〜高山〜木曽の旅>
を実行した。

またも紀行文<静かなる旅をゆきつつ>を発行。
ここまでくると、恐れ入る。




1922年:
二度目の<伊豆・湯が島温泉への旅>。

さらに<利根川上流地帯の旅>で
群馬・栃木・長野などをめぐる。


1923年:
衰えない牧水。

・<千曲川上流地帯の旅>
・<秩父行>

を遂行。



1924年:
牧水、不惑の年齢に入る。

いよいよ初めて長男・旅人を同行して
<九州めぐりの旅>へ出る。
そのゴールは実家だった。

そして
夢よふたたびとばかりに
メディア発行のための事業立ち上げと
オフィス兼住宅となる家を建てるべく奔走。

その間、
同じ沼津市内で転居ムーヴィング。
通算九度目。

飽くなき野望。




1925年:
大阪で資金集めの旅を経て
秋に新居兼オフィスが完成。
記念すべき十度目の転居。

新居完成の祝いと事業開始の前祝いか
また旅に出る牧水。
すこしは節約したらどうかと思えてくる。

しかもまた温泉だ。

<別府温泉、湯煙の旅>の他、
九州各地をめぐった牧水。




1926年:

新事業での新雑誌を創刊。
夢溢れる牧水。

しかし
またもや資金繰りが悪化して
あえなく廃刊。

一年も持たなかった。
無念の牧水。

それでも資金を得ようと全国各地へ旅に出る。

ここからの牧水の旅は
いわゆる揮毫の旅となっていく。

初の海外遠征で北海道国。
そしてニッポン国内各地を回る。

ちなみに北海道国では
美瑛エリアにほど近い上砂川で句を詠んでいる。



牧水は揮毫をしながらも
大酒を食らっていた。

そして
次第に肝臓を病んでいく。





1927年:

二度目の海外遠征で朝鮮へ。

帰路で
さらに九州各地の旅をして
実家へも立ち寄ってから、
沼津の自宅へ帰還。

しかし既に体調は悪化していた。



1928年:
肝硬変により死去。
享年、43。








*****









分かっただけで
生涯で通算十度、転居している牧水。

43年間で十回。

ダモシは現在生涯42年。
その間の転居は十八回。

43分の10の牧水を、42分の18で上回る。
しかもダモシの場合は
海外転居も含まれている。


だが
これはダモシが希有に多いわけで、
一般的に見れば
牧水の転居レジメは明らかに多い。

牧水は立派な<引越魔>だったと考えられよう。






旅に関しては

下手をすれば牧水は
ダモシの上を行くかとも思われるが、

それでも07年2月-12月の

・ニューヨーク〜東京〜札幌〜東京〜ニューヨーク
・ニューヨーク〜東京
・東京〜那須
・那須〜秋田〜青森〜函館〜洞爺湖〜札幌
・札幌〜仙台
・仙台〜青森〜函館〜札幌
・複数回の東京遠征
・北海道国内各地



今年八月現在までの

・美瑛富良野(北海道)
・流氷への旅(北海道・紋別)
・札幌〜仙台〜札幌
・日本三景(宮城・松島)
・最北端の旅(北海道・稚内&宗谷岬)
・美瑛富良野〜層雲峡(北海道)
・三度の東京遠征と都内各所
・東京〜札幌
・札幌〜函館〜青森
・逆おくのほそ道(松島〜仙台〜那須)
・本妻復帰の旅

があるダモシの方が、

過去の北米大陸その他世界と
日本全国通算で考えても
上を行くと判断できるが、

それでも一般的に見れば
牧水の旅レジメは相当なものである
と考えられよう。





牧水は東京と沼津で
ダモシはニューヨークで
それぞれ雑誌メディアを立ち上げた点でも類似している。


むろん
子だくさんの牧水に対して
子は一人のダモシでは相違はあるが、


総合的に見て

ダモシが
「対象」としてシンパシィを感じ得るに
値するような類似項の多い存在
の一人が、

若山牧水といえるわけである。










*****









その牧水が
結婚する前の熱愛として
夢中になった相手が、園田小枝子。

だが小枝子は人妻だったという
悲しいオチ。

当時は未だに姦通は大きな罪で、
いわゆる不貞は
ノーダウトでギルティになっただろう。

それでも
不貞を働きつづけた小枝子とは
いったい何者だったのか。
実に興味深い。






当寄稿の主題。

それは
東京で早稲田大学生として
日々を送る牧水と
小枝子の逢瀬の舞台たる<百草園>。




mogusa2.jpg









*****









正式名称は<京王百草園>。

京王線・百草園駅下車。


住所エリア表記では
土方歳三のホームである
東京都日野市に該当する
(京王沿線には土方歳三縁の地が多々ある)。





mogusa1.jpg






早稲田大学生だった牧水は、

当時居住していた新宿から
どうやってここまで来たのか。
なぜ来たのか。

そのあたりは分からない。



江戸時代の1716年に

小田原城主・大久保候の室が
徳川家康の長男追悼のために
松連寺を再建した後に造園された庭園
というヒストリーを持つ百草園は、

牧水の頃にも既に名所だったようであり、

牧水が
江戸時代の名園という由緒と風情と
静かで都心部から遠いというエルミタージュ性
を重んじて

逢瀬の舞台としてこの地を選んだ
と推測することができるか。







山になっているこの地は

たしかに隠れ家としての
エルミタージュ性を有している。

頂から遠望すれば、

現在では西新宿摩天楼や
府中と調布のビルヂング群が視界に入るが、

牧水が住んでいた時代の新宿には
未だ高層ビルヂングは
存在していないだろうからして、

遠望しても
俗世感に取り戻されることなく
浮世離れの時間を享受し得たのであろう。




mogusa3.jpg









*****








この百草園には
牧水の歌碑が立っている。


いわば牧水にとっての
かなり濃い想い出が詰まった場所といえようか。



mogusa5.jpg



この歌碑を設計したのは、
誰あろう
牧水の長男たる"旅人"氏であった。


写真右から

<山の雨しばしば軒の椎の樹に
 ふり来てながき夜の灯かな>

<摘みてはすて摘みてはすてし野の
 はなの我等があとにとほく続きぬ>

<拾ひつるうす赤らみし梅の実に
 木の間ゆきつつ歯をあてにけり>





たしかにここ百草園には、
大きな大きな椎の樹がある。
摘む多くの草花がある。
大きな梅の木がある。

頭上から梅が落ちてきた。




mogusaume.jpg



百草園名物のひとつである梅の木、<寿昌梅>。







mogusa4.jpg


これが百草園に入って
いきなり最初に出てくるメインの歌碑。

<小鳥より さらに身かろく うつくしく
 かなしく春の 木の間ゆく君>


愛おしい小枝子への想いと、
優しい眼差しで溢れた歌と感じられる。







牧水は小枝子と共に
デートでこの百草園にやってきた。

そして
その歌を詠み、ここに"泊まった"。

この
<百草園に泊まった>という部分に
ダモシは引っかかりを覚えた。

百草園内の説明板にもはっきりと
<百草園に泊まった>と書かれてある。

これはどういうことか、と。

当時の百草園には
宿泊施設があったのだろうか、と。




考えられる施設は以下の二つ。

まずは<三擽庵(さんれきあん)>から二枚。



mogusayado2.jpg


mogusayado1.jpg





しかしながら
この茶室は1957年に建築されたというから、
時代は合わない。



もう一カ所。

百草園のメイン部分に
前述の寿昌梅とともにある<松連庵>。



mogusayado3.jpg



この風情と茅葺屋根の家屋は時代を感じさせ
<ここか?>と思わせた。

家屋部分ではない、
現在の入り口側は
蕎麦を食すことができる休憩所になっている。



mogusayado4.jpg


ざるそばオンリーの
この風情もまた時代を感じさせる。

しかしこの家屋の説明がない。
受け取ったリーフレットにも記載がない。









*****








またぞろ取材癖が出るダモシ。



<ちょっとお聞きしたいことがあります>
と切り出し、取材を開始する。





<若山牧水が
 恋人の小枝子と来たのが、この百草園ですよね?
 で、園内の記載にも"百草園に泊まった"とあります。
 二人が泊まった場所は上にある松連庵ですか?>

と。




係員は言う。

<違いますね。
 そもそも百草園は宿泊できる
 場所はありませんでしたからね>


<なるほど?
 では"泊まった"のはどこですかね?>

<それは分かりません。
 ただ、ここには泊まる場所はありません>

と答えながら係員は
百草園自体のヒストリーを語り始めた。





もともと豪農の私有地だったという百草園。

豪農氏は
無料で市民に自然鑑賞の場を提供していたらしい。

その当時の百草園は、荒れ放題だったという。
後に、この地を京王電鉄が買収した。

京王電鉄は
百草園を<京王百草園>として整備した。

有料化して
都民や市民に提供しはじめたのは
2000年代に入ってからのことだという。


しかも
当初は名物である梅と紅葉、
この二つの季節のみ
入園料を徴収して提供していた、と。
(現在は通年、300円の入園料)


係員はアルバムを取り出して
<梅の時期はこうなりますよ>
<ほら。紅葉はこんなにキレイですよ>と披露した。



肝心の、牧水と小枝子の宿泊はどうなったのか。

<ところで、牧水と小枝子の宿泊場所は
 一体どこだったのでしょうかね>

<そもそも"百草園に泊まった"
 という台詞の意味はどういうことでしょう>

と問う。

しかし困った表情の係員。

(<仕方ないな…>)と割り切ったダモシは

<まあこのエリア全体を百草園としますかね?
 だとすれば、現在の駅前や
 いずれにせよ山の下に当時は宿があった
 のかもしれませんよね>

と話を妥結しようとした。


係員も
<そうかもしれませんね>
と合わせてくれたら良いのだが、

それでも
<いや。当時も宿はないでしょう>と言う。


(<そう言ってしまったら、
 "百草園に泊まった"という
 意味が消滅するではないか…>)

と心の中で呟きながら、ダモシは退散した。



そして同行者に語った。

<どうですかね、泊まった場所は…>



同行者は言った。
<当時なら、山の下に民宿があったでしょう>





かくして
<若山牧水と園田小枝子は百草園に泊まった>
の回答は、

この京王百草園の園内宿泊施設ではなく、

現・京王線百草園駅周辺
並びに百草園の山の下エリア一帯のどこかに
存在した(かもしれない)宿に泊まった
という結論になった次第である。







人生という大きな旅においては
どうでも良いことかもしれぬが、気になったのである。






それにしても

<百草園に泊まった>という記載は、

<百草園に泊まった>という解釈しか
できないのだが、


実際には、
百草園には今も当時も宿泊施設はない。




ならば、
なぜ<百草園に泊まった>という
記録が残されているのだろうか…。


もしかしたら
京王電鉄が買い取る前の百草園は
豪農の私有地だったというから、

牧水と小枝子は
その豪農の家に泊めてもらったのではないか?

とも考えられようか…。




とまれ牧水は
小枝子との逢瀬で百草園に来た。

そして、この園内で至福のときを過ごしたのだろう。


一年後、牧水は
ふたたび百草園を訪れている。
ひとりで。

そして詠んだ句が
先に写真掲載した
三つ並んだ歌碑のうちの一つ
であるらしい(が、真偽のほどは分からない)。




最後に雑感と花を。




mogusazakkann1.jpg



mogusazakkan2.jpg



mogusazakkan3.jpg



mogusazakkan4.jpg





そして、松尾芭蕉。



mogusazakkan5.jpg










:::::





<京王百草園>

京王線利用。
新宿→府中(特急or準特急)
府中→百草園(ローカル)
合計約30分。

百草園駅下車、徒歩約8分。
9AM-5PM/入園料:300円。

園内散策所要時間の目安:30-50分。

















posted by damoshi at 17:00| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月28日

三島バルコニー〜三島由紀夫、最期の地







1970年11月25日、
東京・市ヶ谷の
陸上自衛隊東部方面総監部。

民兵組織「盾の会」メンバー
森田必勝らを引き連れ、
作家・三島由紀夫が侵入。



三島は制止する自衛官らを斬りつけ、
益田総監を人質にして
総監室に立てこもった。

そして総監室の窓からバルコニーへ出て、
自衛隊員を前に演説。

その後、総監室へ戻り割腹。
森田らの介錯により死去。



0mfukan.jpg



俗にいう三島事件。

未だ、善くも悪くも
日本が熱かった時代。

戦後、60年代、70年代という
高熱の日本。

その後の日本はシラケ80年代と
気狂いバブル
(80年代後半〜90年代序盤)を経て、
今や同国過去最悪レベルに至っている。


あの頃は誰もがシラけておらず、
パリのように政治に高い関心を持ち
そして良い意味での
反体制スピリッツがあった。


今のように
誰もが去勢され<よゐこ>
に収まらざるを得ない
夢のない日本とは、

昔は明らかに違っていた。







*****






三島由紀夫、最期の地。

それが総監室。
そして、キーポイントとなった
今や<カルチュラル・アイコン>たる
三島の、

且つ

日本の昭和史を彩るシーンとしても
アイコンとなっている
"演説が行われた場所"。



それが<三島バルコニー>。




三島事件の
<旧東部方面総監室>と

三島が最後の演説をした
<三島バルコニー>を


めぐる。








*****







<やはりこれ、高さが、違うのではないか…?>。


頭上のバルコニーを見上げながら
同行者の後輩に告げた。


見上げたバルコニーは、
ダモシ言うところの"三島バルコニー"。


すなわち
1970(昭和45)年11月25日に
東京・市ヶ谷の
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・東部方面総監室で
割腹自殺する直前の三島由紀夫が、

演説をしたバルコニーである。





0mb2.jpg


主題の三島バルコニー。

澄み切った青空を背に聳立する
現・市ヶ谷記念館
(旧・陸上自衛隊東部方面総監部ほか)。



この建物のポスチャーを見て
三島由紀夫が演説していたシーンを
想起する人は多いであろう。

この場に移築されただけで、
まさにあの実物である。


写真内の建物のエントランスの真上
(背後が窓)のバルコニーであの日、
三島由紀夫は演説した。

眼下に垂れ幕をおろしながら。



移築されたため場所自体は異なるが、
あの日
この建物の
写真を撮影している位置には
大勢の自衛隊員が集まると同時に、

多くのメディアが揃い、
怒号と喧噪に包まれていたであろう。




<ああ、ここだね>


本や映像で見たあのシーンと準えて
建物のポスチャーだけを確認することで
ひとまず納得を得た。



が、

後に紹介する

事件現場の
東部方面総監室へ入って
その部屋の窓から
バルコニーを眺めたとき


<どうも、おかしいぞ>という疑問が沸いてきた。





まずは

その部屋を案内してくれた
ガイド・レディに問いかける。


基本的にこのツアーでは、

三島事件については

可能な限り触れず
可能な限り触れる

というスタンスで
微妙な色合いだったわけだが、

ダモシのツアー参加主目的が
同じくここにある
<東京裁判法廷>よりも
<三島バルコニー>にウェイトがあっただけに

忌憚なく問うてみた。




<三島が演説したバルコニーは、ここですよね?>

と。


すると
ガイド・レディは
<はい、そうです>と言う。


しかしどうも納得がいかない。


階下へ降りて
もう一度
下からバルコニーを見上げると同時に、

やや距離をあけて
可能な限りこの建物を俯瞰できる位置から
見てみる。

疑問は増すばかりである。




そして
疑問の核心を後輩へぶつけた。


<やはりこれ、高さが、違うのではないか…?>

と。


どう見ても低いのである。


<当時の映像でも、三島の声は聞こえない。
 本でも書いてあるが、あの演説はほとんど
 聞き取れなかった、と。なぜならば、下に
 集まった自衛隊員のヤジやメディアの音など
 ものものしい喧噪だったから、と>。


周知の通り、
三島せっかくの檄演説も
ほとんどが
聞き取られることなく終わった、と。


だが
この"高さ"であれば
どんな喧噪があろうとも
そこまで聞こえないほどの距離か?
と思えたわけである。


後輩は
<当時の技術では
 メディアの集音マイクも
 レベルが低かったのでは?>と言うが、


<だとしても、どうよ。この高さだよ?>
と、

あまりにも
抱いていたのとは異なる
バルコニーの高さ=低さに
どうしても納得がいかない。


それでも、

<まあ、たしかに、ひとつには
 ビラを巻いたらしいのだが、
 配下が動揺していて、そのビラを束ごと
 巻いてしまったらしく、散らばるどころか
 そのままドスンと落ちてしまったらしいから、
 この低さならそれもあり得るよなぁ>

とも解釈する。




今度は、
別のオフィシャル広報氏に問う。


あえてここは
"三島"という単語を消して問うた。


<このバルコニーですがね?>
<高さは、当時と同じで移築しましたか?>

と。

広報氏は一瞬、
<えっ?>という表情。

もう一度、問う。
<いえ。あの三島のバルコニーですが、>
<地上との高さは当時と同じままですか?>。



そのような質問を予期していなかったか
あるいは前例がなかったか、
残念ながら
広報氏は返答に窮した。

そこで、あえて深追いしなかった。





しかし、しつこいダモシ。
取材癖が出る。

ツアーの最後、

ここで
この中にいる関係者では
もっとも信頼できると思われる
ガイド・レディ責任者の横に並び、問いかけた。



<ところで。>
<三島由紀夫が演説したバルコニーですが。>
<先ほどの高さも同じですか?>


すると
さすがに強者たるガイド・レディの姉御。

<さようでございます>と。


ダモシが
その高さ(=低さ)を問題にしていることを
察したのか、

あるいは
意図的に話題を"三島"から避けたか、

絶妙の言い回しで回答した。
<陛下がお越しになられることを配慮して>
<あのように低くなっております>
と。


なぜ陛下がお越しになられる際のために
バルコニーを低くしたかといえば、

このバルコニーのある階
(三島事件現場)には、

この建物が士官学校だった時代の
天皇陛下の休憩所(部屋)があったからであるが、

そういうヒストリーを
このツアーで
その部屋を既に見ていて、
陛下休憩所を
ダモシが知っていたであろう
ということを踏まえて

レディはそう述べたわけである。





後輩は即座に
<うまい、かわし方だなぁ>と評価し、

ダモシも同様の感覚を抱いたからして
それ以上は突っ込まなかった。







*****







しかし
直接的な取材を経ても、


且つ
国の機関の
オフィシャルな人間への
対面式であるそれを三度経ても尚、
納得には至らない。


自宅の本棚には
三島関連本は沢山あるから
それらを紐解けば話は早いが、

現場にはない。


後に、ウェブや動画で三島事件を調べる。



しかし
実は
あの三島の演説シーンをとらえた
どの写真も映像も
"三島のアップ"がほとんどなのである。

ここが盲点だった。

所有している事件直後の本でも
後年乱発された研究本でも
いずれも写真はアップ。

"檄"そのものと感じられる
三島の激しい演説シーンのアップばかり。



<そうか…。ヴィジュアルの盲点だな>

と感じた。




ヴィジュアルの盲点。

すなわち、高さの誤認である。

否、高さの"想像間違い"。



つまり
伝え聞かされることを総合するところでの
前述の
<喧噪で声が届かず>
というシチュエーションは、

既に
あのバルコニーが
"相応に高い"と想像させる上に、

ヴィジュアルのそれがすべてアップであり
バルコニーはもとより
建物全体の中での
バルコニーの位置と三島の位置、
三島の大きさなどの対比を可能とするものが

ほとんどなかったのである。





だから
<相応に高い場所>と
誤った想像をしていたのである。




後輩も言う。

<よく見る映像とかには、
 高さを比較するもんが映らないんですよね>

<確かに(バルコニーは)
"低い"かもしれませんが、
 あれ以上高いとマイクなしじゃ無理でしょう>

<写真を探しながら
 サイトの記事を色々読みましたが、
 報道ヘリの音がうるさかったってのが
 最大の理由とされてるみたいですよ>

<それ以上に
 千人も集まって"何だ何だ"って状況だから、
 相当ざわついてたってのが最大の理由では>

<ある種のクーデターだし>

と。




さよう。
同行者の
論の中にヒントがあった。

あれだけ頭脳明晰で
ストラテジーに長けていた三島が、

かつて知ったるあの場所で
己が声が届かずに
マイクが必要だと思っていたら、

それを用意していたであろう。

ところが三島はマイクではなく
地声だけで演説している。


そこから察するに

三島も
<この高さ(=低さ)なら、地声で十分だろう>
と想定したと考えられる。




そうだとすれば
実際にここで見たバルコニーが
正真正銘の"あのバルコニー"だということも
理解ができてくる。

しかも国の公的機関が述べているわけである。
異論を挟む余地は本来、ないであろう。


だが、そこに至っても納得できない。

この日、
当時の建物全体の模型を撮影した写真を持ち出して、
後輩へ送信した。

これだ。


barcony.jpg


ここでブルーで示した場所が、
実際に見たバルコニー。
疑念を抱いているバルコニーである。

レッドのそれが
演説が行われたのは<ここではないのか?>
と感じているバルコニーである。



なぜここまで引っかかるかといえば、
"垂れ幕"である。

あのとき三島は
バルコニーから垂れ幕を下げている。


垂れ幕を下げるにしても
このバルコニー(ブルー)では
低すぎるのではないかという疑問である。


加えて
やはり
これまでの写真と映像での既視感から

高度の想定が
どうしても
ブルーよりもレッドになってしまうのである。

極論すれば
ブルーの位置では
下から登っていって制止することも
できかねないレベルの高さではないか、と。





この模型のブルーのバルコニーと
それと同じフロアの各部屋までが、

現・市ヶ谷記念館の
一部としてそのまま移築の末に残り
冒頭の写真になっているわけだが、


冒頭の写真を見ても

これでは
ある意味で目の前で演説といった世界ではないか
と。



この距離感だったにも関わらず
それでも三島のあの声が
届かないほどの
大喧噪になっていたということなのか。



いくらなんでも
(地上との)この近さなら
三島の声は届くだろうよ、と。








*****







すると
後輩からメールが届いた。

そこには決定的な写真が添付されていた。

よくぞ探したといったところだが、
初めて見る
演説中の三島とバルコニーを含む
建物全体を見事に俯瞰して捉えた写真画像

が添付されていたのである。




そして彼は言う。

<やっと見つかりましたよ。
この写真でわかります。
 まさかこの写真がフェイクってことは、
 ないと思うのですが・・・^^>。


当然ながら
写真はコピーライトの関係で
ここには掲載できないが、

見事な写真である。


http://www.sankei.co.jp/seiron/koukoku/2003/0312/genba.html

ここにある。






まさに
当欄の冒頭に掲載した写真と同じであろう。

これでダモシの疑問は
それ自体が愚問だったということになり、

公的機関のコメントは正しく
実際に見たバルコニーも
まさに
あの<三島バルコニー>だったことが
判明した次第である。



まぎれもなく、

現・市ヶ谷記念館は
あの三島事件のバルコニーであり
その中には総監室が現存されている

という結論になり、

こうして掲載するに至ったわけである。





とまれ、
なにごとも
足を運び己の目で見て感じなければ
何も始まらないとはこのことである。

現場で見てこそ
映像や本で得たそれとは異なる
実態に迫ることができる。


さらにはそこから話題が膨らみ、
たとえば後輩からの

<意識的に(皆)、
 聞こえないようにした
ということもあるのでは>

という論にも発展して
カルチュラルな広がりへ連なる、と。




もう一度、
その建物を異なるアングルから。



0mb7.jpg








*****








この建物の中には

機関にとっては
できれば触れたくない"三島"よりも
主砲格にある

<東京裁判法廷>がある。

これに関しては、別途掲載。
ここでは三島だけに絞る。





<三島事件現場>である。

日本人で
現40代以上の人であれば
誰もが知っているであろう事件。


三島がバルコニーでの演説前に立てこもり
演説後に割腹、介錯を経て決した部屋。

それが
当時の東部方面総監室。
旧・陸軍大臣室。


0mroom.jpg



室内の中央には
建物の模型が大きく存在しているため
俯瞰した室内像を得ることは難しい。


0minside.jpg

この写真の右手が外側にあたり、窓がある。


0mb6.jpg

この窓を越えれば、バルコニーだ。



一瞬のスキをついて
誰もいない室内を俯瞰して
別の位置から部屋と窓までを映した。


0mb5.jpg

このようになっている。





そして
この写真の左手にあたる位置にドアがある。

そのドアは
三島一派を制止しようとした
陸軍側に応戦した三島が
振り下ろした刀がつけた傷跡が

三つ残っている。


0mb3.jpg

ドアの傷を説明するガイド・レディ。



0mb1.jpg

これがもっとも大きい傷。

部屋側(内側)のドアノブから
左斜め下へ目線をおろしていくと、

ドアを閉めた場合に隠れる木の部分が
抉られているのが分かるであろう。

ここは手で触れてみたが、
かなり抉られている。

この傷がもっともインパクトが強いものだった。









三島由紀夫が
今から35年以上も前に語った言葉。




<このままいくと
 日本はなくなって、

 その代わりに
 無機質な、からっぽな、
 ニュートラルな、中間色の、
 富裕な、抜け目のない、

 ある経済的大国が

 極東の地に残るだろう>。





その通りになり、

やがて経済大国の地位を捨て、

日本は今、

さらに

"無機質"さと
"からっぽ"さを際立たせている。





"富裕"も

ごくごく限られた一部が

闊歩してセレブぶっているのみに過ぎない

とてつもなく

"かさばっている"

そして

"イヤらしい"

社会と世の中になっている。








それは

ダモシが渡米する98年以来
10年ぶりに復帰したニッポンで

顕著であり、

当時より
さらに劣化しているのは明らかである。








:::::





<三島バルコニー>

◆旧陸上自衛隊東部方面総監室

所在地=防衛省(市ヶ谷記念館)


0mbouei1.jpg

アクセス=
・都営新宿線/曙橋
(曙橋駅下車、徒歩5分)
・JR&都営/市ヶ谷
(市ヶ谷駅下車、徒歩10分)
・JR&東京メトロ/四谷
(四谷駅下車、徒歩10分)
*新宿からは都営・曙橋利用がベター

ツアー日時=
午前の部/9:30AM-11:45AM
午後の部/1:30PM-3:40PM
(いずれも所要時間約2時間15分)

料金=無料
受付=当日、ツアー開始の20分前
申込=予約制(2ヶ月前から)
詳細は、以下のウェブサイトで。
http://www.mod.go.jp/j/events/ichigaya/tour/index.html


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posted by damoshi at 10:59| 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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